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理事長 石井暎禧の論文集

なにを改革するか

- 医療制度改革への視点 -

医療制度改革とは医療費(総枠)を、下げることという「常識」が、まかり通っている。
これは小泉内閣が主張する「聖域なき構造改革」の必然である。
しかし、従来の資源配分を変化させることなく構造を改めることは出来ない。
一律な減額、バランスをそのままにした医療費抑制では、構造は変化しない。
「聖域なき」とか、「三方一両損」は、構造改革と背理する言葉である。

 医療制度改革もまた具体的に考えれば、医療費(総枠)を拡大することなしには、不可能である。
なぜならば、わが国の医療制度の特徴は、医療の質でなく量の確保、医療へアクセスの容易さによって、GDP対比の医療費がOECD諸国20位の低位でありながら、平均寿命・健康寿命とも世界一位の効率性を誇っているからである。
「医療費の無駄遣い、薬漬け検査漬け、出来高払い制による医療費の高騰」などという批判にもかかわらず、マクロで見る限り経済的効率性がきわめて高いことは明らかである。
旧厚生省もこれを自画自賛してきた。
ところが、医療費抑制を強調し始めると同時に、これを誇示することを止めた。
世界一の効率性の事実を「医療制度改革の課題と視点」の資料編には載せているものの、一般国民向けの本編では省き、老人医療費が高いという資料だけを載せ、強調している。
厚生労働省の主張は転換したのだ。

医療の質の改革

だが、わが国の医療の主要課題は、依然として「医療の質」にある。
「量的拡大の時代は終わった、これからは質の時代だ」数年前から旧厚生省はこう主張してきた。
厚生省の改革試案の項目だけを見れば、いまも正しい問題の指摘がある。
しかし本当にこれを改革しようとすれば、医療費(総枠)は増えざるを得ない。
そのため二木立氏からは、「これは医療費増になるので、実行されない」と「予想」されてしまうのは、市場経済主義の政策だけではなく、医療情報開示や小児救急対策、医師の卒後研修など医療の質を向上させるすべての政策にも当てはまる。
しかし医療の質を犠牲にした効率性を改革する時には、適正な資源投入による質の向上を目指す他に方法はない。

 「医療の質」の改革は多様な要素を持つが、二つの課題が重要かつ困難である。
医療機能の分離再編と医療情報の公開・患者の医療参加である。
もちろん日常診療における医者の質、すなわち医療知識・技術、患者へのよい医療関係をつくり、教育できる技術、それを支える医師の研修システム、生涯教育システム、医師の評価システムなど医療担当者の性能を向上させる必要があるが、それを強制するのは、上記の二つの現実的な医療システムの再編成であり、これが競争の中で現実化されることなしには、医者の質に変化は起こらないのである。

 医療の情報化が叫ばれるが、目的のはっきりしないいIT投資は、公的病院への無駄な「公共投資」にしかならない。
電子カルテにしろ、レセプトとの電算化にしろ、それが達成されたからといって、医療の適正化・標準化・効率化が進むわけではない。

 機能分化による質の確保は、社会的入院というわが国の医療と福祉の恥部を解決する過程を通じてしか進展しない。
これは福祉基盤の遅れと「効率的医療体制」の必然として成立したものであり、この解決には資金を必要とする。

老人医療の効率化?

しかし、厚生労働省の方針は、「質の高い医療」から、「適切で効率的な医療」に主軸を移った。
適切という言葉は、経済効率性への従属概念とも考えられるので、「効率的な医療」が本質である。
なぜ「効率的な医療」がわが国の医療政策の基本となったか、それはわが国の医療費が、人口の高齢化によって急増すると信じられているからである。
厚生労働省の分析官が本当にそう信じているかは疑問であるが、財政危機の一環としての医療財政危機を、財務省の経済政策と歩調を合わせ解決するために、そう主張せざるを得ないのであろう。そして医療制度の抜本改革はそのために必要であると主張されてきた。
医療費抑制が改革の中心軸と理解されているのは、そのためである。

 老人終末期医療費が高いという根拠ない主張が、一時大きく取り上げられたのも、この文脈の中のことであった。
しかし老人終末期医療費はもちろんのこと、人口の高齢化によって医療費総額が急増するというのも、二木立氏の主張するように「神話」である(二木立「21世紀初頭の医療と介護」、頚草書房)。医療費危機論は、意図的な情報操作と言っても過言ではない。
老人医療費問題は、単に高齢者人口の増大問題であって、医療問題や医療費問題ではない、抑制や効率化という無理な考え自体を捨てるべきである。
見かけの医療費を増大させている社会的入院は、本来の介護施設の整備により解決すべきである。
二木氏の指摘するように、「抜本改革は幻想」であり、現場の地道な改革努力によってしか、医療制度改革は不可能である。

世論・マスコミはなぜ医療費抑制に賛成か

医療費における「三方一両損」については、「三方ではなく二方だ、国民負担が大きい」と国民負担への批判はあるが、医療供給側の負担については、「少なすぎる」という声はあっても、問題視する意見は、ほとんどない。
3分間医療への不満はあっても、医療費抑制に世論は賛成なのである。
無駄な公共投資を問題視しても、それを医療費に振り向けよとの世論は存在しない。
医療改革問題の本質がここに露呈している。
国民の医療担当者への不信が、医療費抑制論を支えているのである。
これを政府やマスコミによる情報操作と言って、防衛的に「マスコミの不信には根拠がない」と反応しても意味はない。
マスコミは、国民の不信感に悪乗りしているがけだからである。
205円ルールを議論のすれ違いは、この典型である。「不正」の問題としたのはマスコミのセンセーショナリズムからであろうが、事の本質はここにはない。
205円ルールにおける「不正」は存在しない、医療機関の便宜にすぎないとの反論こそが、国民の反感を生むのである。
医療機関の便宜だけを考え、患者・国民への情報の透明性を保障していないシステムへの批判だと受け止めなければならない。
医療機関への依存性への理解が変化してきたのである。
個々の医師に対する信頼・依存と医療提供への不信は矛盾しない。
医師への依存があればあるほど、内心の不安・不信は増大する。

情報開示と信頼性

 医者は患者との関係において、強者であった。
パターナリズムは、医療における情報の非対称性からして、避けることができない性格を持ってきた。
広告規制の緩和をめぐる議論においても、死亡率の公表は、患者に誤解を与える、安きに流れる医療を生み出すなどの意見が根強く存在する。
医療担当者側はいま、これまでのパターナリズムとパターナリズム批判の間で途惑い、きわめて防御的になっている。
医師会などの内輪の会合で聞く医師の声は、自信に満ちた傲慢さではなく、追い詰められた防衛的な反発として、パターナリズムが主張される。
これではトラブルは激化する。
医療者の主体的な自己規制・自己変革によって解決しなくてはならない。
患者の医療改革への期待の第1が医療事故対策であるのを注目すべきである(医者はそう思っていない)。
患者は医療事故が防げるものだと思っている。
われわれは医療事故が必ず起こると思っている。
この認識ギャップは永久に解消しない、これを和らげるものは信頼関係しかない。
それがないから医療事故を警察に届けるべきという筋違いな認識が生み出された。
このような対応は、医療側の責任逃れを生むだけで有効性はない。
しかし防衛的な医療機関の反感が病院の監督官庁を厚生労働省でなく警察と錯覚するかのごとき主張を生み出している。
信頼関係の回復は、医療担当者の説明責任・その社会的制度化であり、情報の透明化しかない。

小泉政権の意図、厚生労働省の意図

財務省は、財政問題しか考えていない。
経済財政諮問会議は国家財政を小さくすることが、市場原理主義を貫徹することであり、経済再生だと単純に考え、社会保障の意味を理解しない。
結果として、財政の縮小だけが進む。社会的セーフティネットに無関心なだけでなく、社会全体にも無関心となっている。
市場原理主義の空論的適用が、日本経済を破滅に追い込んでいる。
小泉首相は、財務省の誤った方針を貫徹することが改革だと信じ込んでいる。
厚生労働省もこの線上でしか、方針を提出することは許されていない。
医療費の総枠規制さえやれば「改革」は合格点である。
現在の日本医師会・厚生族と厚生労働省の綱引きは、この状況に規定されている。
日本医師会は既得権の擁護以上の改革案は提示できない。
国民負担増反対の1点で国民との連帯を図る。
これが精一杯である。
この対立構造の中で、これまでのシステムを変えず維持しつつ、いかに医療費抑制の攻撃を押し返えそうと考えると、防御的にならざるをえず、反撃は困難である。
厚生労働省は、財務省という外圧を利用し、制度改革をすすめるという路線である。
どさくさにまぎれて、これまでは抵抗のあった医療供給体制の改革を、急速に進めようとしている。
これは相当に危険な要素を持っている。

 金を使わない改革の強行は、保険外へ資金を求めるしかないからである。
さまざまな形で導入される混合医療への動きが、今改定に盛り込まれている。
本来これは不必要な政策であるし、厚生労働省の社会保障制度護持からも外れている。
しかし財務省への迎合政策が日本医療をどのような方向へ導こうとしているのか、思惑を超えて暴走する可能性もある。
個々の政策に右往左往することなく、医療側こそ骨太の方針を持たなければならない。

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