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理事長 石井暎禧の論文集

広井氏への回答

『「福祉のターミナルケア」に関する報告書』(以下、「報告書」と略す)に対する私の批判(本誌2月1日号)に対し、筆者の一人である広井良典氏より、反論が発表された(本誌2月21日号)。
それは「私たちの主張をあまりに誤解、場合によっては曲解するものであり、多くの論点がすれ違いのままに終わっていると思われる」としながらも「報告書」と同じく、超高齢者への医療の否定を繰り返している。
しかし氏の弁明と反論こそ、我々の批判への「誤解」「曲解」が積み重ねられ、論点をぼかし、ケアのあり方を死生観の問題にすり替えている。
そこで広井氏の論旨に沿って、再批判をしようと思う。



第一章 広井氏の「意図するもの」について - ターミナルケアと死生観 -

1.「みなし末期」は「医療の否定」

報告書の「意図するもの」について、広井氏は会場においても論文においても『私たちは、終末期における医療が、「少なければよい」などと言っているのではないし、ましてや医療を否定ないし排除しようとしているのでもない』と主張されているが、そうであれば、医療を否定している「報告書」を書き直すべきである。しかし氏は「同時に、やみくもな延命医療には深い疑問を持っている」と続け、ただちに「医療を否定しない」という弁明を撤回している。
  同じようなロジックは、論文の最後でも繰り返される。「在宅医療程度の医療は介護施設でできるように」という私の主張に「基本的に賛意を表するものである」と言いつつ、続けて「安易なかたちで福祉施設での医療を誘導した場合、医療施設と変わらないような方向に流れ、十分な生活ケアが提供されなくなるおそれがあるのではないか、という懸念を併せもっている」と書き、福祉施設に医療を持ち込めば医療施設に変わってしまうという相変わらずの二者択一の論法である。こうした「安易な」ロジックや形容句(レッテル張り)で私への反論に代えている。このように反論を回避しつつ(誤解・曲解といい)、結論を維持するというやり方が許されるのであれば、すべての論争は「すれ違い」にする事ができる。氏は私の主張に賛成なのか反対なのか、率直に表明すべきであり、私の主張のどこが「安易な」であるのか、具体的な批判をされたい。
  「できる限り医療は控え自然な死を」というのが広井氏らの主張であるのは、この反論でも否定しておられない。これを「医療の否定」と我々が受けとめたのは、広井氏らが「みなし末期」を肯定しているからに他ならない。1月に開催された「高齢者に生きる権利はないのか」というシンポジュウムにおいて、横内氏の「みなし末期」批判を基調講演(本誌3月1日号論文と同趣旨)とし、開催の呼びかけ文においても、「終末期でない状態にまで終末期を拡大解釈し」と、我々の批判の基軸を明らかにしている。私の論文も横内氏の「みなし末期」論を基礎にしながら論理を展開した。もし本気で「医療を否定していない」というのなら、誤解・曲解を言う前に、広井氏は「みなし末期」を明確に肯定している共著者の竹中氏と見解が同じであるのかどうか、末期の定義を改変する意図があるか否かを明らかにすべきである。
  「できる限り医療はひかえ自然な死を」というのは、「消極的安楽死」の主張そのものである。広井氏が真の終末期における緩和ケアを主張するのであれば、その主張は普通の安楽死肯定論の一つにすぎないし、私もあえて批判する気はない。脳死をめぐる論争において多様な立場があるように、死生観の問題を含め、容易に国論の一致を見ることにはならない問題だからである。しかし報告書で広井氏らが提起した問題は、これまでのターミナルケア論争とは、問題の次元を異にしている。通常の尊厳死・安楽死論とくらべてみると一目瞭然である。尊厳死論争は1.不治の病の末期 2.耐え難い苦痛 3.自己決定の3要件を全て満たすことを前提にした論争であった。そして1および2の客観化できる条件に比べ客観化の困難であった3.自己決定の意味および確認が論争の核心であった。ところが「福祉のターミナルケア」という「報告書」の主張は位相を異にする、このいずれをも満たすべき前提にはしていない。広井氏の場合は、かろうじて「選択」を不明確な形で要件にした主張(死に場所の選択論)に自己決定の痕跡を見ることができる。「報告書」の冒頭を飾る竹中論文に至っては、自己決定をも必要としない安楽死(痴呆老人への医療の否定)である。さらに報告書の筆者全ては、耐え難い苦痛は要件にしていない。そしてかんじんの末期を拡大解釈し、これをも要件から外し医療を否定するのが、報告書の画期的な問題提起であると我々は理解した。
  福祉施設で介護されているというだけで、末期でない老人に「できる限り医療をひかえる」のは、「医療の否定ないし排除」であると理解するのは、「誤解」でも「曲解」でもないごく当たり前の判断である。この我々の批判への反論として、「医療を否定していない」と主張するのであれば、「みなし末期」に言及せざるをえないはずである。広井氏が、私の批判を読み、シンポジュウムに出席した上で、「みなし末期」にふれない以上、「みなし末期」肯定論者であると判断できる。
  くりかえすが問題は終末期の判断である。ところがこれを問題にしているときに、『「終末期」ということの判断はそれ自体困難なものであるけれど、いずれにしても・・・・「自然な死を」』と終末期の判断をさけて論ずる広井氏は、ターミナルケアと単なる老人ケアとの差異など、もともと気にはしていないのが本音ではないかとさえ思われる。ここでも反論はせず、結論を無媒介的に維持するという氏の論理の特徴があらわれる。
  広井氏の理解する老人の末期像は、「徐々に衰弱して死んでいくようなターミナル」である、こんな死は、脳血管障害の一部などにしかみられない、このような一部の病像を老人全般の末期の病像として一般化するのは間違いである。個別の後期高齢者の死を、基本的に老衰死としてとらえる広井氏の末期像は、われわれ医療現場の真実とはかけ離れている。この点に関しては横内氏の論文で詳細に分析されているので省略したいのだが、横内氏の紳士的な批判だけでは、広井氏には理解されないようなので、私はあえて直言してみたい。広井氏らの考えるようなガンのターミナルケアと同一概念でのターミナケアは「老人のターミナルケア」では存在し得ない。死期の告知、死の受容への精神的サポート、残されたものへの精神的ケアなどと言った医療的ケア(死の臨床)は、ガンのターミナルケアにおいて、中心的課題となるが、老人のケアにおいて、必ずしも重要なものではない。「老人のターミナルケア」の用語は、広井氏のいう狭義のターミナル(数時間から数日前)に用いられる場合はことさら問題はないが、氏が適当と考える「ターミナルケア」の定義である「死期が近づいていることを予見した上での・・・・ケア」と定義されると問題がある。「特養で行われているケアはすべてターミナルケアである」とする広井氏の「最広義」の定義と実質が変わりないからである。まず死期は予見できない、予見がかなりの確率で可能となるのは、狭義のターミナルにおいてのみであり、それすらよく失敗する。広井氏は明らかに末期の定義を改変しているのだ。
  結局、広井氏は死期の予見という根拠のない主観を導入し、単なる老人ケアをターミナルケアと呼び、医療を行わないことを正当化する道を開いた。
  末期の拡大解釈を根拠づけるものとして、「80歳以上の死は天寿」とする広井氏の考えがあり、これを「健康転換」(公衆衛生学上で使われる、健康概念の歴史的変化)言う耳慣れない概念を使い体系化している(広井良典「ケアを問い直す」ちくま新書)と思われるが、これには大きな疑問がある。感染症を中心とする急性疾患構造(健康第1相)から、慢性疾患を中心とする時代(健康第2相)への転換は事実であるが、だからといって第3相への転換を慢性疾患から「老人退行性疾患」中心へと疾病構造が変わったという広井氏の判断は肯定できない。この段階の特徴は老齢者の増加に伴い、むしろ感染症等の急性期疾患の再登場と慢性疾患の増大である。第1相における感染症は、社会環境の近代化、公衆衛生の発展、医療環境の発展、医療技術の発展により、第2相において医療に占める重要度は減少したが、第3相では、高齢者の結核の増加、肺炎での死亡などが、老人医療で大きな問題となっている。慢性疾患もその性質上、全く減少してはいない、当然増加している。医療技術の面から見て、慢性疾患においても、急性疾患においても後期高齢者と前期高齢者を本質的に区別するものはない、程度の問題にすぎない。「慢性疾患と違って」「治療は本来的に困難」な「老人退行性疾患」とはなにを指すのか医療人には理解できない、老化が進めばいかなる病気に対しても抵抗力は低下し、回復力も低下するのは当然で、慢性疾患と異なる病気にかかるわけではないので、ぜひその概念の由来と定義を教えていただきたい。第3相が、高齢化が進み、医療的ケアでは不十分な、生活援助を必要とする患者が増えると言う意味であるならば、理解できるが、その場合は医療がいらなくなるではなく、医療のほかに介護が必要になることを意味する。(「慢性疾患を生活習慣病と呼ぼう、慢性疾患は解決済みの病気であり個人責任である」という厚生省の「悪名高い」プロパガンダに悪のりして、「老人退行性疾患」は生活習慣病でないから、慢性疾患でないなどと言うのも行き過ぎたプロパガンダである)。
  老人のターミナルケアを論ずる人の中で、老衰こそ本質、慢性疾患はその現象形態と言う人は存在する。しかし、それはマクロの見方であって、個人への医療行為からみれば、慢性疾患のケアがあるだけで、老衰のケアがあるわけではない。広井氏の独自性は老衰を疾患とみなし、個別ケアの問題として、医療の無効性を論証しようとするところにある。
  氏の「みなし末期」肯定論は老人医療の実際を知らないためであると、前回の私の論文では好意的に誤解していたが、「ケアを問いなおす」を読んで認識を変えざるをえなかった。医学的認識において氏の誤謬は一貫性を持ち「体系的」である。かくして年齢によって終末期を定義して良いとする理論は成立し、80歳以上の老人には治療すれば良くなるような疾患は存在せず、「みなし末期」は存在しない、全ては真の末期であるということになり、氏の論理の一貫性は保たれる。老人医療の理解が「医学的に」異なっている横内氏に対して、自らが依拠する老人医学論の所在を明らかにし、横内論文へ反論すべきであろう。

2.末期ケアは医療の論理で決められないのか

広井氏の「みなし末期」論には、老人医療論の他にもう一つの仕掛けがある。「治療すれば回復する老人患者に対して、適正な医療を受ける権利を否定している」という私の批判に対して、「適正な医療」を「適切な医療」と言い換えて、次のように反論している。『終末期における「適切な医療」というものが、医学上の判断のみでひとつに定まるか、というとそうでないと私は考える』と広井氏は言う。これををなにげなくと読むと、一見もっともな主張であるようだが、反論されたような主張をする医者を私は知らない。
  「適切な医療」の判断とは、この場合末期医療の問題であるから、末期であるかどうかの判断を含む。とすると「ターミナルケアを受ける者の価値観、生命観が入って来ざるを得ないし、なによりもそれが尊重されるべきである」し、それが「死に場所の選択」の問題として「医療の論理または医師の裁量ですべて決められるとするのは全くの誤りである」という広井氏の主張が、末期であるという判断まで医師に任せるな、と主張しているのかどうかが問題なのである。判断という言葉が、診断と治療のいずれを意味するのかを明示しない広井氏の主張は、治療方針の決定にいたるまでの、順序・仕組みを考えず、自己決定の優位性の原則だけで医療の論理の単純否定に行き着く可能性があるからである。
  「治療の実施に当たって、患者の意向を無視せよ」という主張を私がしていないのは、すでに私の論文を読んでいる広井氏は分かっているはずであるから、前記の主張は終末期であるかどうかの判断を「医療の論理で決めてはならない」、すなわち「死生観によって末期の定義は異なる」と理解する他にない。ところで人は死生観や価値観を、つねに一般論として自覚しているわけではなく、具体的状況に直面し自覚するものである。どのような疾患であり、どのような治療があり得て、どのような予後であるかということが示されることなく、患者は死に立ち向かい、人生を決定する事はできない。「適切な医療」とは、患者に示される一定の幅は持つ医療の論理(患者の個別性・社会性を客観的に前提とするが、あらかじめ死生観や価値観を与件としない)に基づくオプションの提示のことであり、患者はこれを選択する。診断・治療法の提示以前に死生観・価値観の介入が可能であるとするなら、医師の価値観も介入する可能性が出てきて、医療の科学性・中立性は保たれない。死ぬべき人間かどうかを医師は判断しない、医師の職業的な倫理は人の生死に関する価値観への中立によって成立しうるのである。 しかも臨床の現場では、死生観はむき出しで語られものではない、「酒を飲めないなら、死んだ方がましだ」「輸血をされたら、未来永劫の生を否定されたことになる」「周りの人に迷惑をかけるから、死にたい」「これ以上このおいぼれに、お金をかけるのは世間様に申し訳がない」「生きる気力がない、死にたい」。これらの言葉の中に、死生観があり、患者の置かれた社会状況の反映があり、疾病の症状があり、患者の弁明がある。必要なのは、死生観と患者の置かれた状況・症状との区分けであって、死生観を混入させることではない。
  「生きられるか」の判断は医療の論理により、「生きるべきか」の判断は本人の死生観による、両者の混同は許されない。「適切な医療」とは前者に関わるものである。「適正な医療」「適切な医療」の幅・境界がどこにあるのか、医師も悩むことは現場で日常的にみられるが、医療の論理を否定する根拠にはならない。
  ただし医療的な末期判断はそう簡単ではない、横内氏の指摘するように「高齢者の末期の診断は、高齢者医療の経験を積んだ医師にとってもたいへん難しく、基本的に、治療してみないとわからない」という事情が存在するからである。
  広井氏の理論は末期判定に死生観を持ち込むことにより、「自己決定」の名の下に、終末期を医者が判断できないとして、末期概念を無意味にし、「みなし末期」を正当化しようとする試みである。

3.「死に場所」の選択

ターミナルケアに関する広井氏の考えは、「死に場所の選択」という言葉の独特な使い方にも現れる。これまでのターミナルケアや老人介護・老人医療に関する多くの人の発言にも、「死に場所」への言及が散見する。それらはいずれも死によって逆照射された生き方の問題であった。死そのものを問題にしているわけではない。広井氏のように『「たましいの帰っていく場所」を見つける』などという死そのものを問題にする議論ではなかった。老人ケアの増大が社会的に問題視されるときに、老人の「生」でなく「死」を政策の中軸に置こうとする立場の特異性をまず指摘しておきたい。
  通常ターミナルケアと呼ぶのは、人生の終末期における「よりよい生」の実現を意味する。「住み慣れた場所で死ぬ」ととらえるか、「住み慣れた場所で最後まで生活する」ととらえるか、広井氏と私とでは「求められる視点」を異にする、老人ケアの重要課題を、私は「生き方の選択」ととらえ、広井氏は「死に場所の選択」ととらえる。この意見の差異は価値観の差異である。
  しかし、選択を求められた老人にとって、「死に場所の選択」は抽象概念や「視点」ではない。広井氏が「死に方の選択」でなく「死に場所の選択」としたのには意味がある。横内氏がするどく指摘するように『本来であれば、「治る見込みがあっても、末期とみなして治すための治療をしないという選択肢もあってもよいのではないか」と言うべきところであるが、それを死に場所の問題に巧みにすり替えている』からである。「死に方の選択」とすると尊厳死論に直結し、安楽死3要件が問われ、要件を満たさない広井氏らの「福祉のターミナルケア」が危うくなる、他方「死に場所の選択」(施設の選択)といえば、生活の場所を選択したつもりの老人も、死に方の選択をしたことになり、「自己決定」による安楽死の選択を行ったことになる。「死に場所の選択」論は、容易に広範な安楽死への誘導を可能にする政策理論である。
  これを区別せず単なる「選択」論・「自己決定」論の提唱であると読んでしまうと、このことが見えなくなる。直裁にいえば、「報告書」の「選択」は生命倫理でいう「自己決定論」ではない、むしろそれを否定するものである。「死に方の選択」であれば、病院であれ、老人ホームであれ、いかなる場所で死のうとも、そこでの介護と医療がともに選択の対象である。「死に場所」の選択でそうはいかない。場所によって医療と介護の可能性と制約性が異なるからだ。限定付き選択、だが現実はもっと厳しい。現状は場所の選択がそもそも可能でないからだ。どの特養ホームに入所するか選択できない(介護保険下でどうなるかは未定だが)。かりに建前上は選択できても供給不足では、選択は機能しない。
  このような自己決定の限界を示す現実だけではなく、わが国の場合、意思の成立自体、場の論理に左右しやすいという事情が、「死に場所の選択」に、一層の問題を付与する。先に見た「意思確認の困難性」を倍加させるのは、場によって本人の意思や価値観、そして希望は異なった表現をとり、医療者や介護者のこれを解析しうる能力を要求するからである。

4.「死生観の空洞化」と「社会保障のあり方」

「死生観の論議を深めるべき」との問題提起における、広井氏の特色は2つある。
  一は『現在の日本では、死生観ともいうべきものがほとんど「空洞化」してしまっており、これがターミナルケア論議をめぐる混乱の最大の背景のひとつと考えている』という現状認識である。二にこれがただちに、『社会保障全体のあり方の「選択」を問う』ことに続くという論理構成になっていること、すなわち死生観から政策を導き出すことが、当然と考えられていることの特異性にある。
  一について、広井氏は「ケアを問いなおす」において、詳しく論じられているが、「仏教的な」「伝統的な死生観は急速に風化し」たという氏の認識は、「キリスト教の文化や死生観が圧倒的に根をおろしている欧米に比べ」て見て言えることであって、一神教的死生観(死後の世界の存在する)の社会への根のおろしかたと仏教の死生観(死後の世界を方便としてしか説かない)の社会的あり方とは、比べること自体が間違っている。さらに戦前の死生観こそ国家に強制された、表面的なものであり、現在はメッキがはがれただけで、「空洞化」も「混乱」もないし、根本的変化もそれほどないと私は思う。いずれにせよ死生観は各個人によって多様であり、多様であることが混乱ではない。そして人がそれなりの死生観を持っているものである。
私は現状を混乱とは思わないので、広井氏が、憂国の志士風に「死生観の空洞化」への危機をあおり、「議論を深める」ことを提唱するのには、やや違和感を持つ。議論を深めるのはよいとしても、「再構築」して「社会保障のあり方」の結論を求めるのだとすると、これにははっきりと反対せざるを得ない。死生観について、社会的合意を形成し、ターミナルケアを政策とすることが氏の主張だとすると、その内容は老人の医療を否定する広井氏の政策提言であるため、「医療費抑制を狙ったもの」以上に、老人ジェノサイドを目指す結果をもたらすであろう。

5.広井氏らの「意図するもの」 - ターミナルケアの政策化 -

このような死生観に基づく政策の提言と広井氏のいう「選択の多様性」とは矛盾する。もし選択の多様性と自己決定を結論にしたいのであれば、死生観が『「現世的」なものに限定、集中』することを嘆く必要もないのではないか、それも多様性の一つであるからだ。そもそも死生観の議論も必要ないのだ。
社会保障のあり方は、すなわち政策問題は、一般的価値観と功利的判断が折衷された社会的合意に従って、現実主義的に決定されるが、個人の権利を制約することを本質とする、そのため政策は立ち入るべきでない領域に留意して立案されなければならない。それでもなお政策と個人の死生観・価値観はときに鋭い緊張関係を形成する。死生観と社会保障を直結させる考えは、政策が立ち入るべきでないところまで政策が関与することになる。
こう見てくると、「死生観の論議」の提唱が、個人の自己決定をからめ手から否定するための政策誘導手法であることが明らかになる。
  シンポジュウムの席上、広井氏から『私の考える「福祉のターミナルケア」の実例が、NHKの報道番組で紹介される、この「とよころ荘」の取り組みをみれば、私への批判が誤解であることがわかるので、ぜひみてほしい』という発言があった。広井氏らの「意図するもの」が抽象的でなくビジュアルに示され宣伝されることとなった。ところで「とよころ荘」については、「介護型は、なるべく医療に頼らず極力自然のままの死を心がけているというもので、北海道のとよころ荘では施設長の方針」と広井氏により紹介されている(シルバー新報平成9年9月25日号)。
  私も録画してもらったテープをみて、広井氏への批判が正しかったことを改めて実感した。1.「とよころ荘」の老人ケアは内容的にきわめて高く、特養でできる限りの医療・看護も提供するという方針で行われていると思われること、2.にもかかわらず、このケースは「みなし末期」であると推定されること、3.以上の二点が感動のドラマとして描かれている、という構成だからである。
この報道番組の意図をめぐって、現在、横内氏とNHKとの間で書簡のやりとりが行われていると聞く。いずれその経緯はつまびらかに明らかにされると思うが、それを待たずして、政治問題化がはじまった。衆議院厚生委員会において山本(孝)議員により「とよころ荘」問題がとりあげられ、小泉厚生大臣が、答弁したからである。「わたくしは、その患者さんの判断を重視すべきじゃないかと思います。治る可能性があるんだというお医者さんから十分な説明を受けたとしても、治療をしたくないともし主張されるのだったら、その患者の意志というものが最大限尊重されるべきじゃないかというふうに私個人としては思っております」、ここまでは、いちおう「自己決定権」の認知にすぎない。しかし、簡単にこういってしまっては、「愚行権」が、宗教的信念(エホバの証人の場合でも、治療拒否ではなく、限定医療の要求にすぎない)がなくとも、確認の手続きもなくとも、無条件(自殺未遂者への治療の中止を含め)で認められ、「みなし末期」が容認され、そして医師の消極的自殺幇助も認められることを、厚生大臣が明らかにしたことになる。つづけて「それは年齢によっても違ってくると思います。八十の人がそう言うのか、九十の人がそう言うのか、百歳の人がそう言うのかによっても違ってくる。医者の対応も違ってくる」と答えることにより、自己決定の絶対的尊重が、うわべにすぎず、自己決定の尊重は年齢によって変えてよいとする年齢差別が発言の核心であることが明らかになった。かくして広井氏らの主張が、厚生省の路線であることが、大臣答弁を通じて明らかになったのである。この事件の意味についての私の分析と見解は第二章において述べたい。

第二章 「現状認識について」 - みなし末期という現実 -

1.現状認識の方法

広井氏と私との「現状認識の違い」こそ、イデオロギッシュでなく現状に即して、生産的議論ができる問題である。医療経済学の専門家である広井氏は、医療経済学的分析による現状分析はお得意の分野であるはずだし、私も病院経営者として、医療制度が臨床の場に及ぼす影響を知る立場にいるからである。ところが「現状認識の違い」を「過剰」と認識するか、「過少」と認識するかの、すれちがい、水掛け論として広井氏は描いておられる、これは状況をあまりに抽象化しすぎて、現実的意味を持たない。私は少なくとも、医療保険制度下の医療が歴史的に構造変化を遂げる中で、医療の「過剰・過少問題」の変化を論じている。ところが、医療経済学者である広井氏が、私の分析への反論も言及もなく、「我が国の医療を全体としてみた場合、むしろ過剰の方向に流れる」との判断を説明する根拠として、「ケアを受ける者の意向が十分に考慮されているとは言い難く」と情緒的印象を述べ、社会経済的分析をされないのは奇妙である。
  ここで論じられる主題は、日本の医療における、医者と患者の関係一般ではない、施設介護における医療の問題である。これがいかなる社会経済的根拠から、「過剰の方向に流れている」と断定されたのか。現状、老人病院も老人保健施設も定額制である。定額制の診療報酬制度においてどのようにして、「過剰医療」を行う物質的基盤が成立するのか明らかにすべきである。「医療提供者側の論理」(生命至上主義の医療論理)により「過剰の方向」動かされているというが、これも現実的基盤と無関係に機能しない、良い悪いは別として、「医療提供者側の論理」は「医療経済の論理」に影響されて、出来高払い制と定額払い制では、逆の方向に働くことは常識である。「過剰」が成立しうる急性期の出来高払い制の病院は、今や平均在院日数20日以下を目指し、長期の老人ケアに対応してはいない。
  ケアの選択に関し、医療側の意向が強く働く現実を、批判しているが、そうだとすれば、老人病院において、医療「過少」に向かい、「みなし末期」の土壌が作られつつあることを無視した議論の進め方は意図的である。
  広井氏は、『本人の意向とは無関係に「過剰」ともいえる形で行われている』のが「問題意識の出発点」であると書いているが、医療の過剰・過少問題と患者の意向は無関係である。本人の意向に沿っていても、過剰も過少も存在する。多くの場合、医者の能力・恣意だけでなく、患者の意向によって、過剰医療も過少医療も行われている。これは完全な問題のすり替えである。
  「過剰医療」とは「適正医療」との比較においてのみ成立する概念といって良い。これは患者の意向とは何の関係もない。この問題を個別医療技術論でなく、政策問題として論じたいのならば、DRG導入で論じられている「標準医療」の問題として論じればよい。
  広井氏は『「医療や福祉にかかる費用を減らすため」などという、つまらない考えは全くもっていない』というが、私はこれが「つまらない考え」だとは思わないし、『広井氏がそのような「つまらない考え」を持っている』と批判したのでもない。判断根拠と分析が間違っていると批判しているのだ。「過剰医療」が存在すると考える限り、そのような医療費用を減らすことを考えるのは正しい。しかし政策課題だと考える場合は、その「過剰医療」が部分的でなく、普遍的である原因を、制度論として明らかにし、医療の質の向上をもたらすよう対策が立てられなければならない。ほかならぬ「報告書」が「ターミナルケアの経済評価」の章でターミナルの費用分析を行ったのは、そのためではなかったのか。私がむしろ氏に期待したいのは、「本人の意向」に逃げないで、真っ向から「医療や福祉にかかる費用を減らす」ための、老人を見殺しにしない、まともな政策を提案してくれることである。

2.老人のターミナルにおける「自己決定」(「患者の意向」その1)

ところで、我々がシンポジウムを準備しているとき、「週間文春」誌は、二回にわたり、「過剰医療と尊厳死」を取りあげた、内容については、広井氏らと同様の短絡的な過剰医療批判の誤りもあり、あまり評価できないが、第一回(1月22日号)の冒頭に『患者が、「尊厳死」を望んだ場合、98%の医師は受け入れてくれる、ということをご存じですか』と問題意識の所在を明らかにしたのは評価できる。いいかえると98%の医師は良い意味でも悪い意味でも「延命至上主義」ではないという「事実」から出発していることである。この数字がなにを根拠にしているのかは定かでないが、私の実感からも十分了解できる。かつて日本の生命倫理(バイオエシックス)の大家である加藤尚武氏は「理性的決定よりも自己決定が優位に立つという点に現代倫理の特徴がある。日本では、この観点がまだ明確でないために、理性的でないという理由で自己決定が無視される危険がある」(「世紀末の思想」1990年刊)とパターナリズムに対して、「自己決定権」、「愚行権」(他人に危害を与えない限りにおいて、他人からは愚行と思われる決定をする権利)の優先性を強調された。しかし、裁判における判例(エホバの証人の信者への輸血問題など)の積み重ね、インフォームド・コンセントの診療報酬化など、週刊誌が認定するように状況は大きく変わってきた。バイオエシックスの観点は社会的常識となってきている。だが変わったのは、表面的な「自己決定」の承認と「延命至上主義」の後退だけであるようだ。
  現在では「自己決定」が社会通念化したため、「尊厳死」を成立させない主な条件は、形式上医療側にはない。「患者の意向が十分に考慮されない」としても、それは「患者の意向」が何か明らかでないことが原因である(およびそれをひきだし理解する医療側の能力)。老人の終末期医療において、「患者の意向」が明らかにならないのは、1.老人性痴呆、脳血管障害による失語症や意識レベルの低下等が多く見られる、2.意識レベルの正常な終末期の期間が短い、という事情にある。横内氏の言うように「高齢者が生命の末期へ追いやられる主要な原因は急性疾患である。虚弱・要介護の高齢者では肺炎などの急性疾患により一気に生命の末期に移行することも少なくない」。そのため高齢者の末期は、多くが数時間から数日であって、「患者の意向」が明らかにされることはほとんどない。
  となると、それ以前のリビングウィルが必要ということになるのだが、どのような病気にかかるかもわからず「治療してみなければわからない末期」に「できるだけ医療を控える」というリビングウィルがあり得るのか。たいていの場合「理性的」な「患者の意向」は、末期になって初めて成立しうるものだ。
  老人の終末期については、自己決定をめぐる問題の焦点は、「患者に対応能力がない場合はどうするのか」に移っている。『そのときにはじめてその患者が「理性的な人格」であるならば下すであろうような決定を、誰かが代理する。それでも決定できない場合もあるだろう。そのときには最大多数の最大幸福のために、費用対効果という観点もいれて功利的観点から判断することが許される』(加藤尚武、同上書)といわれている。しかし、理性的判断から功利的判断へは、断絶があり、功利的判断には、価値論もなく基準は漠としている。加藤氏は「長期にわたる植物状態」を例としてあげておられるが、自己決定の論理と矛盾しない、あるいはその境界上に連続して存在しうる功利的判断の例としては、不適切であろう。生命倫理の立場に立つ限り、個の利害が直接矛盾し、「他人に危害を与えない限り、自己決定は尊重される」という原則が満たせない場合にのみ、功利的判断が許されると、考えるべきではないかと思われる。たとえば災害時のトリアージュ(選別)など、医療資源の絶対的不足から、平等・公正な医療供給が不可能な場合にのみ許されると。これに対し、植物状態のような場合は、他人への危害はなく、生命倫理と対峙する功利的判断によって(あるいは、植物状態を脳死と同様、人間の死として理解する)しか医療の中止は根拠づけられないというべきではないか。
  自己決定と理性的決定(代理決定)はともに患者の側、患者の利益に基づいた決定として、生命倫理の論理の中に位置づけられる。これに反し、費用対効果という功利的判断は、明らかに、身体・生命の個的所有と自己決定という生命倫理と対峙して全体の利害という別の根拠を持つ。功利的判断は全体としては生命倫理の外にあると思われる。
  いきなり功利的判断に移る前に、「理性的決定」を成立させる条件づくりが必要である。それを抜きに価値観や倫理と無関係な「功利的判断」を考えるとすると、歯止めのない現状肯定になる。
  しかもわが国の現状では、「代理者の決定」についての社会的・制度的なシステムは存在しない。家族が、そして長く施設に住む場合は、施設職員が、決定権者となっているのが実状であろう。成年後見が制度化されたとしても、重要なのは、代理者は本人の場合と違って「愚行の権利」を持つわけではなく、「理性的判断」を代行するということである。横内氏が「わが国の高齢者医療についてのコンセンサス」というのも、現実に存在する功利的判断に基づくコンセンサスではなく、「理性的決定」のことと解してよいと思う。わが国において「理性的決定」が(医者を含めた)老人医療への無理解により、きわめて危ういことを、横内氏は警告されてきたのだと私は理解している。
「報告書」が、きわめて俗論的な「過剰医療」への認識から、いきなり功利的判断の費用対効果の検討に入るのを当然と考えているのは、別の論理が働いているからに他ならない。そして昨今の高齢者への過剰医療批判が、ただちに「安楽死」論へと横滑りするのもこの理由からである。

3.「自己決定」の誘導(「患者の意向」その2)

生命倫理における自己決定権は、患者の意識のあるなしに関わらず貫徹する。意向が明らかでない場合であっても、自己の身体・生命は本人の所有として侵すことはできない、家族であろうと他人には処分権はない。現代社会の根底を成す個的所有を否定しない限り、「自己決定」を否定できない。そこで現代社会への根底的批判なしに、生命倫理に功利的判断を持ち込もうとするものは、さまざまに自己決定を掘り崩す論拠を、脈絡なしに数え上げようとする(たましいのケア論、死生観、場所の選択、費用論)。広井氏らの議論のわかりにくさの秘密である。これらはいずれも、老人の「自己決定」を死に向かって誘導する論理として必要なのである。
  だが生命倫理がある限り、功利主義は制約される、広井氏らは自己決定・自己選択を越える論拠を必要としている。広井氏の新たな支援者である中村仁一氏は、古典的な生物学的人間観をニュートレンドである環境倫理学的の装いを凝らして主張する、「自然界の掟には従うべきで、人間だけがしたい放題をしていいはずがない。自力で飲み食いできなくても長らえることができるのは、動物園の飼育動物とペットくらいであろう」(中村仁一、「ばんぶう」1998年4月号)と選択を否定する。
  いま「自己決定権」という個人主義は歴史的な制約性を持ち、地球環境の悪化に対して、個人主義の生命倫理学の限界を指摘し、全体主義の立場に立った環境倫理学が登場しているという(加藤尚武「環境倫理学のすすめ」丸善ライブラリー)。ところで自己決定の過剰な主張が、ターミナルケアの領域においても、社会・環境を破壊するものとして批判され、全体主義が復権されなければならない状況にあるのだろうか、私はそうは思わない(西村氏は2010年にはそうなると主張する)。中村氏が「報告書」と同様な軽薄な人間観に基づき発言できるのは、広井理論に触発されたためである。しかし「環境倫理学」にとっても、このような便乗者を予想しておかなければならない。
  だが、これらの意見はむしろ極端なもので、通常「過剰医療」が過剰に喧伝されるのは、バイオエシックスそのものの限界を印象づけなければ、功利的判断への誘導がしにくいからであろう。環境問題と位相を同じくして、高齢化社会の到来に対する過剰反応として、このような功利主義的見地から(あるいは環境主義の装いをこらした生物学的人間観)の政策提言が登場したのには、それなりの理由はあると思う。だがそれは、自己決定・自己選択と真っ向から対決する全体主義的発想として、比較検討すべきで、なし崩しで乗り移るべきものではないし、かれらの自己決定論のインチキ性が明らかになったというべきである。

4.呆け老人と尊厳死協会(みなし末期の諸相1)

「老人に対する医療の否定」の最たるものは、対応能力の低下した、立場の弱い痴呆老人に向けられている。近年、尊厳死協会には、呆けを尊厳死の要件にしようとする動きがあり、「(社)呆け老人をかかえる家族の会」が、「これは呆けに対する偏見・誤解に基づくものであり、このような議論がいっそうの偏見・誤解を広める」と抗議している。
  「申し入れ書」の要旨を紹介しよう。『まず「ぼけ」の人は「死に直面」していません。体の元気な状態のぼけの人をどうして「尊厳死」させるのですか』「痴呆の症状と身体的重篤とは必ずしも一致しません」『どんな疾病にも共通する最末期の状態以外に、「ぼけ」を「尊厳死」の対象とすることは、やがて「ぼけ」以外の知的・身体的・精神的な障害をもその対象に加え兼ねない危険性をはらむと危惧します」『貴協会の会員が「痴呆は非尊厳の最たるものである」などと述べられていますが、これは重大な「ぼけ」に対する偏見と誤解です』「本人自身は、そのような状態の中でも、懸命に生きていこうとしているのです」と述べ、『貴協会が「ぼけ」を対象にしないという立場を明確にされる』ことを求めている。これに対する尊厳死協会の回答はない。
  伝えられる老人性痴呆の「異常行動」「迷惑行動」などが、尊厳死協会員をふくむ多くの人は、痴呆状態を「非尊厳的」と受けとめたり、医療や介護が困難であると理解されている。このため功利的判断により、死ぬのはやむを得ないと考えられがちである。だが「異常」な反応と他人からはみなされる行動は、本人からすれば、「正常」な反応にすぎないことがほとんどである。アルツハイマー型の痴呆の中核的な症状は、「新しく記憶ができない、逆行的な健忘が進む」ということである。このような病態を前提にして、老人の行動をみれば、全てまともな反応なのだ。突然10年さかのぼって、見知らぬ人と場所にいることを発見した老人、その瞬間だけを生きる老人を、どう理解し、どのような関係を作るか、介護の根本はここにある。ケアされていることを忘れるため老人から感謝は示されず、介護する人は報われないと感じるかもしれない、しかし良い関係ができることが感謝の表れであり、成果である。痴呆老人の行動を「異常」とみないことから介護は始まり、良い関係がつくられ、「異常行動」は消える。「非尊厳状況」を作り出しているのはケアなのだ。このような生活環境づくりが、痴呆老人へのケアである、これを生活ケアといってもよい。ところでこの老人が病気にかかった時、どうすべきか、たしかにこの老人を病院に移し治療しようとすれば、きわめて困難な事態が生ずる。まず環境の変化に対応できない、病院に居る理由が分からない(正確にいえば、すぐ忘れる)。治療の意義もすぐ忘れる。医療を可能にするためには、完全な信頼関係が前提となる、そのため、もっとも「適切な医療」は生活の場・介護環境のなかで、提供される医療である。現代医療技術はこれを可能にしてきた。どうしても入院でなければ不可能な手術でさえもデイサージャリーや腹腔鏡下手術の拡大・普及によって変わってきている。医療の困難性は減少している。そのため緩和ケアや制限医療を前もって一律に決めるべきとは思われない。
  麻酔技術の進歩による疼痛の緩和や、このような医療技術の変化によって、功利的判断以外には、安楽死の必要性が低下しつつあるにもかかわらず、むしろそうであるがゆえに、尊厳死協会や「報告書」は痴呆状況を末期とみなして、「消極的安楽死」を認めようとしているのではないか。
  医療経済学者の西村周三氏の場合は、功利主義の立場(?)から、2010年になれば、老人医療費が大きな問題になるので、末期であるかどうかは関係なく、アルツハイマー病になれば、医療を行わない選択があって良いし、入院はさせないと言う考えがあっても良いという、尊厳死協会以上にすっきりした考えを明らかにしている(「医療98」5月号)。

5.人工透析の中止(みなし末期の諸相2)

「家族の会」の危惧が、危惧にとどまらない実例が、透析患者さんの会である「全国腎臓病協議会」の機関誌で紹介されている。「県立宮崎病院精神疾患患者透析導入拒否事件」の控訴審で「精神病理由の透析拒否は過失」との判決が出たとの記事である。「高齢や障害など透析導入を拒否される選別の動きが伝えられる中、そうした動きに対する厳しい警告になりました」と評価している。同会によれば、「透析中止に関する医療界の動きも、十分警戒していなければならない」と認識しているとのことである。それは新聞にも報道された透析医に対するアンケート調査にみられる、医師の意識である。「透析中止の死亡多発、患者の意志未確認も」『人工透析、家族要望あれば、「中止」と医師過半数』(朝日96.6.13および14)という見出しで報道された平成7年度厚生科学研究による、「透析医に対する、透析患者の終末期医療に関するアンケート調査」である。意図は「慢性腎不全に対する透析医療は、それ自体が延命治療であり、これに関わる医療従事者の意識や体験は、Advance Directive(代理人決定を含む広義のリビングウィル、以下ADと記す)を含む終末期医療の現状と将来性を考える上で、貴重な示唆を与えるものと考えられるため、本研究を企画した」とある。「結論や合議内容を導き出すためのものでなく、考える材料として提起するものである」と一応慎重な姿勢を見せている。だが内容を見ると、「医者は延命至上主義」という通説を一枚はいでみた、現実の医師の意識が明らかになる。
  設問は2つの症例に関するものである。ケースAはアルツハイマーの70歳の透析患者。「彼は自分が誰であるかもわからず、妻や子供さえもわからない状態です」と仮定されている。ADがあり家族が望むならば、84%の医師が中止すると答え、家族が望むだけで、約60%の医師が透析を中止すると答えている。家族に聞かれたら、透析中止を勧めると答える医師も約2割存在する。ただし家族が反対したら、本人の意思に関わらず84%の医師は透析を続行する、と答えているのである。「全ては家族の都合」、これがわが国の死生観の実体であり、国民的コンセンサスの危うさを示している。ほんの一歩で、家族の負担軽減という「功利的判断」が、歯止めなく登場することを示している。「みなし末期」の根底にある意識である。
さらにこの設問には痴呆患者に対する、ふつうの医師の理解程度が窺える。「彼が自分が誰であるかもわからず」とあるが、これがなにを意味するかが判然としない、尊厳死協会のように痴呆とは「植物状態」とか「非尊厳的存在」であるとの認識のように感じられる。しかし自己認識は他人との関係において始めて成立する、この場合は「妻や子供さえもわからず」ということを意味するにすぎない、このレベルの痴呆でも「兄弟姉妹」は認識しうることが、しばしば見られる。私の母もこの設問のレベルの痴呆であるが、妹だけは認識できる、そして曾孫を見せられ「あなたの曾孫ですよ」といえば、「かわいいわね」と喜んであやそうとする。この私の母が「非尊厳的存在」で、一刻もはやく死なせることが幸福とだれが言えるのか、「家族の会」が、一般人の認識を嘆くゆえんであるが、医者も変わりはない。
  医師もこのような老人の死を家族が望めば容認する、これがわが国の医療の現実である。横内氏が「医師の責任」を強調するのも当然といえよう、しかし家族介護の現場に接する医師は、家族の要求する「みなし末期」を容認せざるを得ない状況に置かれている、これもまた現実である。設問の回答で、透析中止を家族の負担軽減のためとする医師が多い。
  この現状をどう認識するのか、広井氏は、現実を容認する「視点」から「死に場所」に医療を不要と認識し、私は現実を変えようとする「視点」から、「生活」には医療も必要と認識する。

6.「とよころ荘」問題とNHKの制作意図(みなし末期の諸相3)

1月26日NHK列島福祉レポート「老人ホームでみとりたい」という番組が放映された。まず前半で、「とよころ荘」のケアの様子が紹介された。この部分をみれば、老人に整った服装をさせ、お化粧をさせるなど、要介護老人を普通の生きた人格として扱っている立派なホームである。医療については、酸素吸入も、吸引も、経鼻栄養も行っている。看護婦さんのみならず、介護者も医療知識を学び介護に生かしている。このホームを広井氏は「吸引や酸素吸入をできる限り行わず」という施設と同列に扱い、「なるべく医療に頼らず極力自然のままの死を心がける介護型施設」と紹介し、「施設長の方針」と解説するのは、そうあって欲しいと思う広井氏の我田引水が過ぎ、ひいきの引き倒し、ほめ殺しになっている。
  さて問題は後半部、胃潰瘍の老人の医療にある。診断治療についてテレビから読みとれる「事実」は、横内氏と同じ理解なので氏の要約を借用する。「夫婦で同ホームに入居していた80歳の男性は、ある日、突然下血します。主治医は、胃潰瘍からの出血を疑いましたが、本人は入院を拒否しました。そして、家族は、本人の気持ちと手術に耐える体力はなかろうという主治医の意見によって、入院せずにホームで暮らし続けることを希望しました。「今の状態では、(大きな)検査に耐えられる状態ではないし、入院すると精神的に不安定になってしまう」ので、「痛みだけをないようにお願いしました」と家族の一人が語っておられました。それを受けて、「症状を抑えるための治療だけを実施」することになりました。下血直後、50/-近くまで下降し、その後は100/-近くを維持していましたが、8日めに静かに息を引き取りました」。
  番組は、老人医療に明るくない人が見れば、自分もあやかりたい最後であると理解するように制作されている。しかし我が国の標準的医療という観点でみれば、さまざまな疑問のある症例である。
  胃潰瘍の出血は、通常、手術の必要がなく、入院も必ずしも必要ではない、内科的治療で治癒させることができる。この場合も手術が必要である理由は示されていない。ホームに入居のまま治療するので十分可能と考えられる。しかし画面で見る限り、治癒を目指して治療が行われた形跡はない。横内氏のいう「限定的医療」でさえ行われてはいない。止血剤を混ぜた点滴が行われたとのことであるが、胃潰瘍の出血には気休め以上の効果は期待できない。明らかにこの段階で「死を予期したケア」である緩和ケアに移っている。
  この番組を見る限り、末期でない患者に、緩和ケアを行った「みなし末期」であると思われる。そこで横内氏はNHKに「みなし末期の紹介を意図したのか」という質問を行った。さまざまなやりとりの後、「死因は肺炎である。みなし末期の意図はない。最善の医療を行ったと信じている」という回答が行われたとのことである。回答と画面のストーリーでは違いすぎる。突如「肺炎」と変わった病名は番組においては一度も出ず、肺炎の治療がおこなわれた形跡もない。真相は分からない、しかし回答の通りとすれば、なぜ事実と違う「見なし末期における安楽死」のストーリーを作ろうとしたのかが、問われてくる。ともあれ書簡の往復が交わされている途上であるので、今後の展開を注目したい。公平にみて番組は、ケアが優れていることをもって、みなし末期を容認させようとする意図が明瞭にあり、広井氏の推薦の理由も理解できる。
  実体はどうであったのか、ここからは、私の推論である。一抹の疑念は残るが、「とよころ荘」の方針はテレビで紹介された「できるだけ入院させずに最後まで介護する」(これは問題のない、優れた方針である)ということであって「できるだけ医療を控えて、自然の看取りを」(安楽死の方針)と広井氏が理解する合意ができているとは思われない。しかし、その施設においてすら、「みなし末期」を作り出しているのは、担当医師の責任だけではなく、北海道の医療過疎に依るのではないかと私は想像する。町立病院から週二回の往診があると紹介されているが、道東の特養にとっては、贅沢の部類に属すると思われる。そして町立病院に入院したとしても、往診で提供される以上のレベルの医療が受けられるとは保証できない。日本の医療にとっては、ごく当たり前の、胃潰瘍の内科的治療ですら、手に負えないレベルの医療資源(人材・設備・機器)の状況、これが過疎地医療である。NHKは「みなし末期」は過疎地の現実と紹介すればよかったのではないか、美談にしたてたのが間違いだったのである。NHKは明確な制作意図があったのだろうか、それともただ「みなし末期」を常識と考えていただけなのであろうか。
  制度的欠陥と老人医療への無知は、そして介護環境の困難さは、過疎地に限らず、全国あらゆる場所で、日常的に「みなし末期」を生み出している。それを「幸福な死」として容認し「幸福な生」があり得ることを忘れている。広井氏らの主張はこの現実を容認する役割を果たしている、と私は思う。 

7.「死の医療化」とみなし末期の日常化

「福祉のターミナルケア」という広井氏の提案の出発点に「死の医療化」批判あるいは「死は医療のものか」という問いかけがある。これがなにを意味するのか、氏の論文を読んでも明らかでない。とりあえず「死は医療のものではない、と同時に福祉のものでもない。死は個人のものだ」と私はシンポジウムでは答えておいた。再度、同じ問いが発せられているので、死の臨床の場について、私が現状をどう認識しているのかを明らかにしてみたい。
  ごく常識的に理解するなら、「死の医療化」とは、大多数の人が、病院で死亡する、死が病院システム、医師の管理の下におかれ、個人の自由が束縛されている、という事実を指していると思われる。医療の束縛を逃れるためには、医療から逃れればよい、という短絡的な感情が、「福祉のターミナルケア」の根底にあるのではないか。「死の医療化」という言葉からは、我々の世代のものは、イリッチの「病院化社会」批判などの管理社会批判を想起させる。イリッチの批判は総論あるいは批判の視点では興味深いものであったが、我々医学徒にとってさえ、その具体的叙述、とくに医療についての具体的な評価は、お粗末で納得しがたいものであった。広井氏の「死の医療化」論の抽象性に対しても、私は同様な欠陥を感じる。もし「死の医療化」批判が、医療による管理批判であれば、この文脈の論理であるが、その場合には、福祉の管理は、医療の管理以上に、全生活、全生涯を包括管理しうるものであるから、医療の管理以上に否定されるべきだ、ということになる。「死に場所」を施設にゆだねるな、在宅死だけが唯一の選択だ、「病院のターミナルケア」を否定せよ、「福祉のターミナルケア」を否定せよ、となるのではないか。現にこう主張する人もいる(網野皓之「みんな、家で死にたいんだに」日本評論社)。私は、ここまでの原理主義的立場をとらないが、論理の行き着くところ、このような考えもあることを踏まえておく必要がある。
  だが、抽象的・情緒的に医療を批判する前に、死の臨床現場における、医療の中止をめぐる現状を見る必要があると思う。病院における死を考察するにあたって、老人病院などの長期療養型病院での死を対象にせず、急性期病院の死を対象にする。私の考えでは、長期療養型病院での死は、期待されていることも、医療の薄さをみても「福祉のターミナルケア」の一類型だと思うからであり、病院的な死の管理の典型は、急性期病院にあると思うからである。病院における死は、日常的でありながら、病院の目的の外にある。病院に期待されていることは、生きること、死からの生還である。死は目的の不成功と考えられている。これは外からは、「生命至上主義」「延命至上主義」とみられ、批判される。だが事態は全く逆ではないかと思われる、先に見たとおり医者の「延命至上主義」は見かけ倒しである。かつて医者のパターナリズムは「生命至上主義」の医療の倫理と、現実としての功利的判断を医師の内部で折り合いをつけるものとして存在した。しかし「自己決定権」が「生命至上主義」とパターナリズムを無力化させた。他方「生活の質」という観念は個人の価値観を内包するため、パターナリズムの内部には存在できない。医者がパターナリズムを捨てるとき、残されたのは功利的判断や便宜主義だけである。そのため、「生命至上主義」でもなく「生命の質」派でもない医者は、ただの医療技術者として、ひとたび末期と判断したとき、これ以降は医者の責任分野でないとして、患者をまったく見捨ててしまう。治癒が可能の場合では、対応は二極化した。救命技術の高度化は、それが可能な施設において医者は、「過剰」と思われるくらいの技術を駆使し、救命に努力する。他方、その機能を持たない施設にあっては、その施設の能力に応じて、医者は「末期」を認定する、すなわち「みなし末期」を安易に容認し、老人への救命医療の努力を放棄する。先の週間文春誌上の、診療所医師による集中治療室医療への批判は、このような基準なき臨床医療の現状の反映である。さらに、さきにみた中村氏のような「自己決定論者」が、環境主義的言辞を弄し、人間とペットを同一視(こうなれば安楽死の施行は容易である)し、「医療は一種の賭だ。治るものしか治らない。医療によって助かるものが死ぬことはあっても、死ぬものが助かることはない」(中村、前述論文)と無責任に言い放つのも(医者でないものが、こう考えるのは勝手だが、医者であれば廃業すべきである)、医師の依って立つ倫理的・経済的基盤が喪失したことの現象形態といえよう。病院でも診療所でも、生活基盤に立脚した老人医療の実践を志す医者は、適正な老人医療のあり方を、自己の施設の限界にとらわれず、探っている。とくに在宅医療にたずさわってきた医師が、その経験に基づき、現状の混乱に対し、適切な発言を開始していることに、敬意を表したい(「医療98」98年4月号の太田秀樹および新田国夫の論文)。

最後に 「医療と福祉の関係」

「医療と福祉」の関係において、『石井氏が、あたかも筆者が高齢者の「医療と福祉」を分断したうえで、しかも前者を排除しているかのごとく論じているのは、まったくミスリーディングなものと言わざるを得ない』と反論されるが、私は「誤読」はしていないし、読者を「誤導」もしていない。広井氏の『「高齢者の医療と福祉」を切り離すことは困難であるという、主張』にこそ私は批判的であり、「切り離すことを」を私は主張しているからだ。さらに広井氏の提唱する「統合」した「老人介護・医療保険制度」にも私は反対し、年齢を問わない介護保険および医療保険の別建てを主張しているのである。見事にかみ合っていると思う。医療と福祉を切り離して理解していれば、この二つは別の問題なのであるから、一方だけでよい(あるいは一方を重視する)という広井氏の主張などあり得ない。医療と福祉を切り離せない一つのものと考えるからこそ、どちらの割合を大きくするかという発想が成立し、「福祉施設へ医療行為を誘導すると、医療施設と変わらない」という主張にもなり、結果として二者択一になるのである。いわば広井氏の主張は一枚(医療・福祉)のパイを政府の立場に立って、医療施設と福祉施設でどう分けるかという議論であり、私の主張は患者の立場に立って、二枚(医療と福祉)のパイが欲しいということなのである。
  広井氏は「医療と福祉にまたがる複合的な問題を持つため、どこに行っても適切な対応が受けられず」という現制度の欠陥を批判する、これまでの医療と福祉の縦割り行政を念頭に、広井氏の「統合」論がその是正として主張されているのは理解できる。だからといって福祉と医療を混同してよいということにはならない。両方が受けられない行政システムの不備に過ぎないからだ。厚生省は、医療と介護の両方が必要な人をどのように扱うかについて、これまでもそして現在も、定見を持っていない。安易に「医療と介護の両方を受けられる施設を」と考えてしまう。これでは老人病院・社会的入院の拡大にしかならない。
  そのため、介護保険においても、医療と介護の区分する原則が明らかにされていない、と私は批判してきた。私の主張は次のようなものである。
  「介護保険制度の根幹構造をしっかりとしたものにするには、給付サービスと費用財源の対応関係を厳密にし、予想されない問題に対する原則的な対応が容易にできるよう制度設計すべきである。医療ケアのコストは医療保険から、介護(生活ケア)のコストは介護保険から、ホテルコスト(狭義の生活費用)は自費または年金相殺でとなるべきであろう。この原則が日本介護保険では曖昧になっている。ところが、医療費の名の下に、介護費用を捻出してきた社会的入院の存在は、事実上の介護施設の費用の一切を介護保険でまかなうという、「現実的」ではあるが非論理的な制度設計(一施設2枚のレセプトは困るなどという枝葉の議論を含め)を強行した。かくしてわが国ではケア提供機関単位で医療保険・介護保険適用を分けるという奇妙な制度になってしまった」(「介護保険の持ち越された課題」新医療5月号)。生活ケアの施設における医療は、外部化してケータリングサービスとすることを含めて考えればよいと思う。医療と福祉は統合ではなく、連携であるべきだと私は考える。
  この問題は、全般的な医療制度論そのものでもあり、「ターミナルケア」の枠内で収まる問題ではない、私の前の論文でも「慢性疾患論」として部分的には論じたが、別個に論じなければならない大きな問題である。しかしこの見解の相違が、「ターミナルケア」のあり方にまで影響すると私は考えているので、いずれ稿をあらためて議論したい。

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