医療保険改革と「老人終末期医療」

事実に基づいた改革を

なぜ終末期医療が問題となるのか

 最近、終末期医療をめぐる「研究報告」が、厚生省やその外郭団体の資金によって、世に発表されている。また政府の審議会等でも、終末期医療が検討項目となっている。「平時において国家が人間の死に関与しようとする、これは異様な現象である」という認識をもって対処すべき状況だと私は思う。
 しかし問題は、一般世論ではさほど奇異なことと考えられていないことだ。医療費改革の主題が、老人医療費の増大への対策であり、老人医療費増大の問題点が「老人終末期医療費」に現れると考えられているからであろう。代表的な意見として「近年、終末医療費が高額に上がっていることは周知の通りである。さらに今後は高齢者特に後期高齢者の死亡数が急増することから、終末医療費の規模は今後急速な拡大が見込まれる。終末医療費が遠からぬ将来において医療保険財政を圧迫する恐れもある(広井良典)」がある。
以上の前提は、実のところ一部の「医療経済学者」の撒き散らすデマゴギーにすぎず、まったく根拠がない。彼らが医療費問題で「老人終末期医療」に焦点を当てることができるのは、「社会のお荷物である」老人への医療は、無駄な医療であるという偏見を悪用していること、さらには前提となる事柄が事実かどうかを確認しようとする人が少ないからである。そのため、医療費増の真因が何か、それが将来、現状とスケールを異にするほど増加し、医療制度を破壊するのか検討されることなく、現制度では医療費が足りないという事実だけが誇大に流布されているからでもある。しかも「保険料を主に支払う若年世代の負担がさらに増す」ことが、一面的に強調され、医療費抑制でなく老人医療費抑制へと、老人医療費が若年世代の敵であると煽動される。「老人終末期医療費」はスケープゴートなのである。

国家と「死の政策」

 国家が個人の死を政策化するのは、一般に非常時に起こる現象である。「医療費危機」が煽られるので、「老人終末期医療」という「死に至るありかた」を国が論議することが、奇妙に感じられないのである。しかしこのようなときにこそ、国家が個人の死へ関与しなければならないほどの危機が存在するのか、情緒的な煽動に踊らされることなく、立ち止まって熟慮しなくてはならない。
これまで国は戦争に際し、国民に生命をささげることを要求し、そのための教育を強化するのは一般的政策であった。他方、全体主義国家を強化するため、障害者・虚弱老人・「劣等人種」を抹殺する事例もあった。国家社会主義から社会民主主義の国家まで、ハードとソフトの差こそあれ、「合理主義」「理性主義」の人間観が、「非生産的人間」を冷静に、抹殺したり、断種したり、隔離・収容してきたのである。医師もまた「合理主義」者として容易に協力者となり、ガス室での「安楽死」や、障害者の断種を実行してきた。ナチスのユダヤ人虐殺に先立ち、障害者や老人の「安楽死」政策があったことを、忘れてはならない。
 障害者等の抹殺政策が実行される前には、障害者等への「合理的政策」がまず提唱される。冷静に判断する限り、障害者やユダヤ人の存在が、ドイツ国家に害を成す存在であったわけではない。国家非常時へ国民をかきたてるスケープゴートであったに過ぎない。いかに無害であろうと「非生産的人間」であると規定されると、無駄の排除は冷静に実行された。
 医療保険制度改革の時にあたって、「老人終末期医療」の「合理的」改革がさまざま提唱される「怪しさ」もまた、同一の構造を持っているように思われる。これらの提唱者は同時にかならず「最近の日本人には死生観がない」と強調する、言わんとすることは、「無駄な生をむさぼる老人」への論難である。

「終末期医療費」は高額ではなく、「後期高齢者医療」も無駄ではない

 じつは終末期医療費が一般の医療費と比較して、さほど高額でなく、また死亡年齢が高くなるにつれ、むしろ減少することは、国立人口問題研究所の府川哲夫氏などのレセプト分析から実証されていることである。またわれわれの病院における生存退院患者と死亡退院患者の医療費分析からも、一件一日あたりの入院費は、いずれの年齢層でも死亡患者の方が低く、また後期高齢者の一件一日あたり入院費は、前期高齢者より低いことが、明らかである。入院から退院までの総額をみると、死亡患者(終末期だけではなく、重症ではあるが救命可能と考えられた患者を含んでの)医療費は生存患者と比較して在院日数が長いためやや高くなるが、それほど高額ではない。重症度を含む疾病構造の差のためと考えられる。しかし悪性新生物の場合では、一人あたりでも、一日あたりでも、いずれの年齢層でも、死亡例の方が低く、死亡例・生存例を問わず、高年齢につれ医療費は低くなる。
高齢者は死亡率が高く、救命医療は無駄であるとの偏見があるが、私どもの病院でみるかぎり90歳を超える患者でも、入院死亡率は20%であり、これらの憶測も誤りであろう。「高齢者の肺炎死亡率は医療を尽くしても80%である」との高名な学者の座談会発言を読んだことがあるが、本当だとしたら、そこにおける医療の水準を疑うものである。高齢者を何歳以上とするのか明らかでないが、私どもの病院の肺炎死亡率を見ると、60歳以上の高齢者全体では20%、75歳以上の後期高齢者だけをみても30%である。
高齢者医療の費用を論じる場合、正しいデータに基づき議論すべきで、印象で議論すると誤りを犯す。しかし、一連の老人医療費抑制のためのキャンペーンは、重症者への医療や老人医療を無駄な医療だという考えを国民に刷り込み、冷静な論議を困難にしている。長期にわたる植物状態の患者や、意識レベルの低下した長期療養患者を、集中治療の必要な患者と故意に混同し、「スパゲティ症候群」などというレッテルを貼って、無駄な高価な治療であることを強調するのはマスコミの通弊である。「スパゲティ症候群」という用語自体、集中治療への誹謗であり、集中治療を受けている患者への差別用語である。医者が迎合して使うべき言葉ではない。しかもICUに長期療養患者が普通は存在するはずがないにもかかわらず、末期の長期療養患者が医療費を浪費しているというデマゴギーを意図して、このようなレッテルが乱用されている、この誤解は正さねばならない。

「老人終末期医療」という言葉の怪しさ
 − (脳死から安楽死へ、「死」の拡大政策) −

 そもそも「老人終末期医療」という概念自体を成立させる必要性はあるのだろうか。脳死の場合と比べてみよう、脳死では、延命医療を行おうが停止しようが、心臓停止までの期間は数日である。そのため治療の停止が最大の問題ではなかった。臓器移植をめぐる利害が本質的対立であった。臓器移植を受けなければ死ぬことが確実な人の生命と脳死患者の生命をどう考えるのか、医師も脳死患者の立場から発言する場合と受け手の患者の対場から考えるのでは、視点が逆であり、きわめて難しい立場に立たされた。それでも脳死の場合は、定義の上では脳の生物学的死という客観性を持ちえた。そこに歯止めが存在したといえる。ところが「老人終末期」という概念は、「死が近づきつつある」というあいまいな定義だけがあり、そのように定義した患者に対しては、医療を施すべきではないと主張される。治療停止の理由は経済的であるにもかかわらず、人間の尊厳の問題であるかのようにすり替えられながら。これまで「生活の質」と理解されたQOLは「生命の質」と翻訳されることにより、本人からみた治療への評価・選択の意味から、他者から見た質の評価を意味するものへと変質した。そのため他者の持つ障害者・病者への差別感がとりこまれ、他者が社会へと拡大し「尊厳なき生命」への軽蔑に重点が置かれるようになった。
そして脳死の場合のように、二つの生命の間で揺れ動いた、選択の悩みもなく、あいまいな定義のまま、治療の停止という消極的安楽死が、「老人終末期患者」に検討されるべきであると主張されるにいたっている。助かる命を見捨てることを「ターミナルケア」と強弁し、「死の自己決定」が賞賛され、「自己決定」をしない老人は「死生観がない」と非難される(社会保険旬報2001.1.11座談会)。しかも「死に直接つながらず、死期も予測できない」患者をも「老人終末期」と呼ぶ(医療経済研究機構の終末期医療報告書)ことが通説化しつつある。この「老人終末期」の実態は、広井氏の段階では、あいまいにされていたが、いまや「要介護者」「ねたきり老人」がそれにあたると「識者たち」は公然と主張する(前述座談会)。さらに要介護老人への医療は「医師の良心からして治療をやらざるを得ないでしょうから、そういう人たちが医療機関にいないようにしておく(西村周三)」ことを検討すべきとの意見も公然と提案されるに至っている。

老人終末期問題とは、老人医療費問題である

 さきに見てきたように、終末期医療費が医療費に与えるインパクトは小さい。そして老人のターミナルケアをどのように効率化したところで、老人ケアコストにほとんど影響を与えることはできない。にもかかわらず、これを問題にするのは、老人医療費が無駄であるといって、老人医療費抑制を正当化したいために他ならない。老人の慢性疾患にあっては、死期を予測できず慢性疾患終末期なる概念は一般的に成立しがたい。にもかかわらず老人終末期をことさら問題にするのは、終末期概念を歯止めなく拡大して、障害をもち、介護を必要とする老人すべてに適用することによって、老人医療費の抑制をしようとしているからである。このような動きが強まったのは、老人医療費の増大の本質が、制度の問題でも医療費の非効率的運用でもなく、老人人口の増大にあり、国民負担率という枠にはめられた医療・福祉費の中での配分では収まりがつかないからに他ならない。しかし社会資源の配分問題であるならば、なにが最大の浪費であるかが問われなくてはならない。社会的資源を本当に浪費しているのは、医療なのであろうか。
 その上介護保険では、在宅ケア推進による老人医療費削減効果をうたったが、そのメッキも剥げ始めた。もともと在宅ケアの推進と、医療費とは関係のない話である。在宅ケアの推進は、これまで自宅で医療からも介護からも見捨てられていた老人障害者を救済することに意義があり、医療・介護の社会的コストを増大させることはあっても、減少させることはない。また老人のQOLの点で問題がある社会的入院を減らすのは、在宅ケアへの援助だけでは無理であって、施設介護を充実させねばならない。その代わり施設介護費が増加する。それを嫌って、介護保険適用の療養型病床を抑制しようとした結果、医療保険適用に過半の療養型病床を残した。せっかく介護保険をつくりながら、相変わらずの問題の先送りである(もっとも、医療保険適用の療養型病床群のおかげで、介護保険の欠陥が救われているのは皮肉である)。
 このような状況を改善する努力は払われず、しかも正攻法で老人ケア費用の社会負担を構想するのでもなく、闇雲に老人医療費を減らそうとするならば、行き着く先として老人人口を減らすしか解決の方法はなくなる。老人終末期の提唱の意味はここにある。平均寿命が世界最長であり、いわゆる「健康寿命」も世界最長である我が国の寿命の延びを逆転させ、早死にさせることが、政策の射程に入った事を意味する。デンマークにおける福祉政策の光の部分だけでなく、高齢者の平均余命が短いことが注目され始めたのも、このような状況を背景としている。

「自立・自己責任」の変質

介護保険での「自立支援」という高邁な理想が、要介護者の多くを占める痴呆老人への対応を正しく考慮できなかったため、制度は現実と遊離している。介護保険における最大の難点が「自立」出来ない、「自己責任」のとれない痴呆老人への対応であることは、制度発足前から指摘されてきたが、未だに解決の方向は見られない。そのため「自立・自己責任」の強調が障害者の安楽死のすすめに転化しない保証はない。痴呆老人切り捨てへの歯止めが必要である。このような状況下では、成人病を「生活習慣病」と言い換えることによる、健康キャンペーンも、健康教育の普及を図る反面、「生活習慣であるから個人の責任であり、生活習慣病にかかる人間は非難されるべきであり、社会が面倒を見る必要がない」という考えを助長し、「生活習慣病」という言葉も病者への差別用語となる。成人病の原因は、個人の習慣だけによるのではなく、遺伝的素因、社会環境のなどさまざまな要素をはらんでいるからである。
「福祉のターミナルケア」の提唱者が、自己決定とともにおかしな死生観を持ち出してきたのは、偶然ではない。本来のQOLの向上にむけて、自己決定を重視するのは当然であるが、死生観とQOLは全く関係がない。どのような死生観を持とうともQOLは高めなくてはならないからである。QOLが本来の意味を外れて、「尊厳なき」生を否定し、安楽死を選択させるための概念に変質したため、関連が出来たのである。自己選択の意義も「良い介護」をつうじて生を選択する意味から、死を自己選択することへ意味が転換した。

医療と介護の混同

 終末期医療費の増加というデマゴギーと並んで、老人から医療を取り上げる論拠となっていることが、もう一つある。それは介護保険における医療と介護の分離の不完全さであり、医療保険における老人医療定額制である。介護保険と医療保険にまたがる社会的入院から派生した問題である。いわゆる老人病院が、介護需要に入院で答え、介護コストを過剰医療によって補った。老人病院批判に対して、過剰医療を抑える代わりに介護コストを認めたのが、老人入院費の定額制であり、介護力強化病院・療養型病床群であった。現状を糊塗する政策が、医療と介護の違いを曖昧にした。そして老人の医療を介護によって代替できるという誤った考えが、医療経済学者に蔓延し、老人からの医療の取り上げを正当化した。だが社会的入院は、介護を医療で代替しているわけではない。病院で誤った医療と不十分な介護を行っていただけであり、老人には医療を少なくすることが正しいということを意味しない。定額制になった今でも医療も介護も不十分なのが社会的入院である。現在の長期療養者の医療と介護の問題点は、介護を必要とする老人の生活を保障する社会システムを用意してこなかったことにある。その状況は介護保険によっても変わってはいない。

根拠に基づいた改革を

 誤った論拠に基づいた老人医療制度の改革であってはならない。増加している老人の医療を真に保証しうる改革であってほしいと思う。日本の老人医療における、個々の無駄の指摘は可能だし、改善も出来る。しかし一般論として老人医療費が無駄に使われていると言い、そのための医療保険改革を主張する人は、日本ほど費用をかけず「健康寿命」を延ばしている国とその医療制度を紹介すべきである。それが出来ないなら、費用負担の方法をまず考え、その上で具体的医療の改革を考えるべきであろう。医療や介護の質を高めることが、費用の増大をもたらすことは確実だからだ。
 老人は病気にかかりやすいし、病気になれば治りにくい、そのため若い人に比べれば、医療費がかかるのは、当然である。しかし先に述べたように、同じ病気の治療費では、高齢者のほうが高額であるとの根拠は存在しない。老人医療費問題において、これらの諸条件を一つ一つ解析せず、あたまから老人に医療費をかけすぎであり、それを防ぐため老人では定額制・包括制をとるべきとの提言をするものがいるが、あまりに乱暴で、老人の生存権を無視した差別発言である。
 最後に、医療制度改革においては、次の3点を望みたい。
1.医療提供において、老人への差別を招く制度にはしないこと
2.医療と介護を混同しないシステムとすること
3.根拠のない思いつきや、経緯にとらわれた制度設計をしない
 そして最近、一部で提唱されている「老人医療介護保険制度」は、財源論を除けば、すべて上の条件に抵触する誤った提案であると私は思う。

追記 :

 診療報酬の定額制問題については、関連するが大きなテーマであるので、稿をあらためたい。なお「老人終末期医療」における、医療経済学者らの暴論に対する批判を、再三にわたり書いたので、興味のある方は読んでいただければ幸いです。
1.老人への医療は無意味か 
   痴呆老人の生存権を否定する「竹中・広井報告書」
    「社会保険旬報」(1973号 1998.2.1) 
2.みなし末期という現実(上・中・下)
   広井氏への回答
    「社会保険旬報」(1983号 1998.5.1)( 1984号 1998.5.11 )( 1985号 1998.5.21) 
3.終末期医療費は医療費危機をもたらすか
   「終末期におけるケアに係わる制度及び政策に関する研究報告書」の正しい読み方
「社会保険旬報」(2086号 2001.1.21 )