終末期医療費は医療費危機をもたらすか

「終末期におけるケアに係わる制度及び政策に関する研究報告書」の正しい読み方

 今日、老人医療費の高騰が、医療保険制度の危機の原因として把握されている。
医療サービスのあるべき姿はなにか。
また、いかに費用を調達するのかといったことが、今日の本質的テーマである。この課題に対して医師たるものは、医療を実践するだけでなく、調達された費用を使う立場として、老人医療がどのようなものであるかを説明する責任もあると思う。
とりわけ、「医療経済学者」といわれる人々から、医療への理解が不十分なまま、医療のあり方について、重大な問題提起がなされている状況があるので、これへ反論することは医師の説明責任であると考え、再び筆をとった。素材とするのは、医療経済研究機構(宮澤健一所長)による「終末期におけるケアに係わる制度及び政策に関する研究報告書」(以下、本報告書という)である。

本報告書を取り上げた理由

 平成8年度の社会福祉・医療事業団による助成事業として、広井良典氏らは「『福祉のターミナルケア』に関する調査研究報告書」(以下、広井報告書という)を発表した。
その中でターミナルの概念、定義を本来の終末期とは離れて、高齢期とりわけ後期高齢期全般に意図的に拡大させた上で、
「老人の終末期疾患は退行性疾患であり、医療は意味がないので、介護が厚く医療の薄いケアを」
と事実上老人の医療を退ける提言をした。

 これは老人の生存権を真っ向から否定する提言であり、容認できないと筆者は考えた。
そこで横内正利医師とともに、
「がんの終末期像を老人ケア一般に拡大するのは誤りである。老人の死の直接原因は、例え慢性疾患を持っているにせよ、多くは急性疾患によるものであって、死期は予測できない。治癒できるものは治療するという立場に立つのを、日本における常識的な対応として良い」
と反論した。

 我々の疑問に答えず、広井氏は「視点」(医療による老人ケア支配への批判)を繰り返し、問題をそらせたまま論争は終わった。

 しかし、この論争は広井氏がターミナルケアの概念を拡張することを提起したため、医療と介護の関係がターミナルケアだけでなく、老人ケア全般においても検討すべき問題であることを明らかにした。
これは介護保険制度の発足と医療保険改革の検討が進む中で、一層重要な課題となっている。

 広井氏に代わって、これを正面から指摘したのは西村周三氏であり、「21世紀医療保険改革の課題」(本誌2001号)で「福祉のターミナルケア」論争に触れ、
「この問題提起は、単にターミナルの状況にとどまらず、長期ケア全般にわたって、倫理的考慮も絡めて、本格的に議論する必要のあるテーマである」
と述べている。

 「福祉のターミナルケア」論争は、医療の有効性が限定的なターミナルケアの問題を、老人の長期ケア一般に拡張し、老人医療批判として論じることの妥当性が主題であった。
したがって、広井氏、西村氏の提起した問題は、もともと医療の有効性が乏しいと認識されるターミナルケア期の論争の形を取りながら、実体は医療の有効な「長期ケア」期に医療を否定することをめぐる政策論争であった。
つまり老人医療費という経済問題が根底にあったのである。

 だが論争の経済的側面については、広井氏が
「医療費を抑制しようというけちな考えはない」
「医療の排除ではない。生活ケアの充実を」
と問題意識を事実上修正し、あるいは焦点をはぐらかしたため、筆者も深追いしなかった。
これにひきかへ西村氏は老人医療では経済問題こそが焦点であることを明らかにして、本格的に老人医療費の削減を論じている。

 ところで医療費増加を問題にするとき、老人の増加が問題か、老人に無駄な医療が行われているのが問題かは、はっきり分けて考えなければならない。
前者であれば、医療費の負担を社会がどのように負うのかがまず主題であって、医療のあり方を問題にするのは筋違いであり、短絡的に老人医療費抑制を結論にすべきでない。
後者であれば、医療の実体を明らかにし、医療のあり方を問い、問題解決がどのように可能かが論じられなければならない。
ところが前者の課題を医療のあり方を変えることで解決しようとする発想がこれら経済学者の中に多く、これを筆者や横内医師が批判すると、医者の立場からする「生命至上主義」であると情緒的に決めつけられてしまう。
昨年発刊された本報告書もこの発想から出発したため、内容は一歩も進まない。
現に「発刊にあたって」
「これまでの日本の医療は、根本的治療に注力し、終末期における患者のニーズが必ずしも充分に考慮されてこなかった。医療機関での死亡の割合が8割にも達することや末期患者に対する肉体的・精神的苦痛の緩和を第一義とするホスピスや・緩和ケアの普及が遅れている」
という現状認識から始まる。
そして最終章において、
「終末期におけるケアを医療中心型から看護・介護中心へ」が政策課題であると、相も変らぬ筋立てで終わっている。
しかも「終末期のケア」とは、先に私が批判した広井報告書と同様、ガンの終末期医療に触れてはいるが、定義を意図的に拡大した老人の「終末期ケア」が狙いと思われる。
ガンの終末期を主題にしているときにのみ妥当する分析や結論を、老人慢性疾患の終末期に無理にかつ強引に普遍化しようとして、論理的に矛盾に満ちて破綻している。

 結局、医療を経済的に分析することから結論を出すのではなく、報告書の主観にすぎない抽象的な「患者ニーズ」に問題を移して一気に老人ケアのあり方を主張せざるをえなくなっている。
このようにケアを重視するというヒューマニズムを語ることで、老人への「医療」の否定を正当化するのも、先の広井報告書と同様である。
これが経済学の手法と言うべきなのであろうか。

 筆者が深刻に受け止めているのは、本報告書が世に出されたことで、広井氏の拡大した定義が研究の前提になり、広井氏らの誤った結論が一人歩きを始めたことである(日本の研究者からのヒヤリングは、広井氏と広井報告書の共同研究者である鈴木玲子氏以外では、府川哲夫氏ただ一人である)。
主題および課題(結論)が、広井氏の考えの枠内にとどまっているのはそのためである。
そして、この定義が内包する予断と偏見が、事実を正しく認識することを妨げ、報告書の結論部分における、政策課題という名の政策提言と、研究課題という名の事実認識がちぐはぐなものになった。
この点だけを見ると、広井氏の発想と府川氏の実証研究が、融け合わず最後まで併存している「公正な」報告書と評価することもできる。
とはいえ、本報告書を世に出した組織は医療経済研究機構であり、報告書自体も両論併記の形を取りながらも、「政策提言」がクローズアップされて一人歩きを始め、政府の政策決定に影響を与えたり、マスコミ等にも取り上げられているため、事は重大である。

なぜ終末期医療が問題か

 「調査の目的」として「我が国の終末期におけるケアは医療機関に入院して行われることが多く、………医療費の高騰につながる可能性が指摘されるなど医療保険財政面でも一考の余地がある」と記されている。
先行する広井報告書の第4章「ターミナルケアの経済評価」における「近年、終末医療費(本章では終末医療費とは死亡一年間の医療費と定義する)が高額に上がっていることは周知の通りである。
さらに今後は高齢者特に後期高齢者の死亡数が急増することから、終末医療費の規模は今後急速な拡大が見込まれる。
終末医療費が遠からぬ将来において医療保険財政を圧迫する恐れもある」との問題意識を受け継ぐものである。

 この点に関して、率直な見解を述べているのは西村氏である。
「長期的には、超高齢期における過度な医療重視にどう歯止めをかけ、介護に移行させるかが議論になる」
「要介護状態になった際、延命より質の高い生活を重視するという理念は、医療界からの反論はあるものの、一般論としては、そうした方向を目指すことは賛成できる」(日経新聞2000.10.24)。
「終末期」ではなく「要介護期」における「延命」否定であるので、「救命」の否定を意味する。
なお、「医療の必要性を年齢で区別することがあってはならず」と同一論文上で、互いに矛盾した論理を展開したため、この日経論文ではなにが言いたいのか分からなくなっている。

 しかし水野肇氏との対談(医療98、5月号)においては、
アルツハイマー患者が急性疾患を発病した際に「治療という医療的介入をするのか、医療的介入をしないという選択肢をもつのか」と問いかけ、
「そこで治療するかしないかで、推計は難しいですが、ずいぶん医療費は違うはずです」
「2010年以降には70歳以上の高齢者が激増しますので、10年先を考えて今から議論しておかないと」と来るべき医療危機を指摘し、
「医師の良心からして治療をやらざるを得ないでしょうから、そういう人たちが医療機関にいないようにしておく」ことを提案しているので、
明らかに急性期の救命を否定し横内医師の命名した「みなし末期」を選択枝とするのが本心である。
すなわち、医療費を削減するには、医療が提供される環境に老人を置かず、老人に医療を提供しないにつきる、という単純明快ではあるが、生存権を無視した政策を確信犯として語っている。

 しかし、これらの論者は経済学者でありながら「超高齢期における過度な医療重視」を指摘しながらも、それがどれだけ普遍的な医療実態であるかを、経済学的に実証しようとしてはいない。
あれこれと例を挙げるだけである。
本報告書の問題意識が仮説ではなく「思いこみ」から出発しているためである。
現に同じ報告書の中にも「思いこみ」を否定するデータがいくつも示され、前提となる高齢者医療費の事実認識は疑問視されているのに、これら経済学者の「思いこみ」は変化せず、終章の「医療中心型から看護・介護中心へ」という「政策課題」へと直結されている。
広井・西村両氏だけでなく、本報告書においても、前提となる高齢者医療費の事実認識が問われているのだ。

 ところが報告書の最後を見ると、研究課題(結論ではないという意味か)として、「近年の研究には、ホスピス・緩和ケアが期待されたほどの医療費削減効果を挙げていないとの指摘もある。
また死亡直前の医療費抑制が医療費全体に与えるインパクトはさほど大きくないと考えられる。
以上の点から、終末期ケアの社会学的関心は、医療費の影響よりむしろ患者のQOLの向上とその前の適正な資源配分に向けられるべきであろう」と遠慮がちながら正しい認識を述べている。
それにもかかわらず、本報告書を貫く「思いこみ」は変わらず、政策課題(結論であることを意味する)は、「医療中心型から看護・介護中心型へ」という広井・西村氏と同様の認識へ、実証抜きに飛躍してしまう。

 先の論争において筆者は医師として、医療のあり方に焦点をしぼり、医療の経済的な側面には深入りをしなかった。
しかし同じ過ちが繰り返されるので、今回は筆者もあえて経済問題ではあるが、報告書の内容に介入してみたい。
本来ならば本報告書を世に出した医療経済研究機構の責任において、この論理の矛盾を収拾すべきであろう。
以下では報告書が紹介するデータやヒヤリングを素直に読み、正確に理解するならば、どのような結論が浮かび上がるかを検討してみよう。

「終末期」の定義における、二つの方法

 本報告書では、はじめに「前提条件・概念整理」として「終末期の定義」を行っている。
「本稿における『終末期』の考え方」として、
「本調査でヒヤリングをしたアメリカの研究者も、長期間で捉えるべきとの意見が多数である」
「したがって、本稿においては広井が指摘する死期は予見できないが『死期が近づいていることを予見した上での、死を安らかに迎えることへの準備を意識した、心身両面にわたるケア』を行うことのできる期間を終末期と定義する」(p5)
と終末期概念の拡大を主張していることが特徴である。

 しかし「予見できないが、予見する」という文章(定義)は理解不能としか言いようがない。
「死が近づいていることが予見できるが、死亡に直接つながるような兆候は認められない死亡直前期以前の終末期」(p45)と言ってみても事態は変わらない。
人間生まれたときから、死は近づきつつあるのは当たり前で、死に直接つながらず、死期の予見もできないのに、なぜ終末期なのか。
広井氏の場合は死を予見できないとは言っていないので、氏の定義自体は理解できるが、この報告書の論理はでたらめである。

 前ページの「『終末期』であると判断する基準」において、
「心臓病や肺疾患などは何度も発生する危篤状態のいずれか(初回のこともあれば数回目のこともある)で死亡するため死期を予測しにくい。ましてや体力の低下にともなってさまざまな疾病を併発しがちな要介護高齢者の見極めは困難である」
としごく正しい認識をしているので、なおさらこの定義が不可解となる。
定義を拡大した根拠としては、広井氏の見解だけでなく、アメリカの研究者の意見でもあるように読めるが、資料として載せられた米国ヒヤリング報告を読んでみても、そのような判断は成立しない(後述)。

 この混乱は、終末期を定義するに当たって、プロスペクティブな定義とレトロスペクティブな定義の違いおよび役割を、明確に認識していないためと思われる。
そのためがんと慢性疾患の病状の進行や、ケアの質の差を(アメリカの研究者から)指摘されても、その意味が本報告書の執筆者たちには理解できないのだと思われる。

 たしかに医療経済を論じる場合は、レトロスペクティブ(事後的)な研究も意味がある。
終末期の医療のあり方を問題にするのではなく、医療費がいくらかかるかを問題にする限り、事後的分析で足りる。
その場合、統計上の設定時間を定義と名付けることもできよう。
その時期を便宜的に一日、一週間、一ヶ月、一年、十年のいずれとしてもよい(その場合には、終末期医療費分析でなく、死亡前医療費分析と言うべきであると思う)。

 しかしケアのあり方を論じようとするときに、終末期の性格を定義するのでなく、
「研究者本人に尋ねても、これらの期間の設定は医学的な判断に基づく設定ではなく統計上の設定に過ぎないとのことである」(p4)
と記されているような、統計上の設定時間自体を定義内容とするのは何の意味があろうか。
死までの限定された期間におけるケアのあり方に関する研究に必要な定義は、プロスペクティブ(予後としての・診断的)な定義でなければならない。
ケアのあり方を変えて終末期医療費を安くしようと考えるならば、経済学者の研究であっても、プロスペクティブな定義に基づき検討しなければならない。
 私や横内氏と、広井氏との論争における終末期の捉え方の相違を、医者と経済学者の立場の相違によっていると理解した読者も少なくないと思うが、それは論じる課題と方法の関係が理解できていないように思われる。

事後的な終末期医療費研究が語るもの

 医師が終末期と診断して以降の医療費の分析が困難なため、本報告書においても老人終末期医療費の分析としてレトロスペクティブな分析のみが紹介されている。
前述のごとくレトロスペクティブな検討は、直接には診断上・医療上の指針にはならない。
しかし医療保険財政上「終末医療費が高額に上がっていることは周知の通り」であり、「財政圧迫の原因」であるという見解(これが思い込みであり、錯覚なのだ)が正しいかどうかという課題に限定すれば、事後的な終末期医療費研究は役に立つ。(「推計は難しい」といって検討をしないまま、危機をあおることは論外だ)。

 人間死ぬのは一回限りであるので、同じ病気をしたときに、生存して退院した場合より、死亡した場合の方が多少高額であっても、さほど問題ではない。
病気が重いので当たり前である。
終末期医療費が異常に高額であり、生涯医療費を押し上げて初めて問題となる。
そこでこの問題を取り上げられる際には、「過剰医療」や「過度な老人医療給付」が頻度や一般的な状況の検討がないまま、「スパゲッティ症候群」などの個別事例が例証として批判的に取り上げられることが多いが、母集団を純化した統計的・客観的な比較データの研究はない(例えばDRGの群ごとの、生存退院と死亡退院のコスト分析)。
その代わりに
「死亡前の一人あたり・一日あたり医療費は生存者にくらべ高額である。70歳以上の入院医療費を比較すると死亡月は生存月の2倍以上、一日あたり、1万8千円ほど高い」(p40)
ことや
「死亡から遡った期間別の一人あたり・一日あたり医療費が高騰しているような印象を受ける」(p40)
という事実(図1)が、老人終末期医療費の高さを証明しているかのように誤解されがちである。

 しかし、前者は死ぬような病気と死なない病気の医療費を単純に比較しているだけであり、重い病気の場合に費用が掛かるのは当たり前で意味がない。
これに比べ、後者は全死亡患者の平均的傾向であり、意味を持ちうるかに見える。
広井氏の判断もこの現象(図1)と同様の表に依拠していた(広井報告書p55−57)。

 ところが、本報告書では、広井氏のようにこのデータの分析を現象から短絡的に評価せず、因子をさらに深く分析している府川氏の研究を紹介して、
「死亡前医療費が嵩む要因には、(A)患者一人あたりの医療費が死期に近づくほど増額すること、(B)死期に近づくほど医療へのアクセスが増えること(入院に限ると入院患者が増えること)とが考えられる。....府川も指摘するように、死亡者一人あたり医療費が増加する要因としては、(A)の一日あたり医療費の増加よりも(B)の入院患者の増加という要素の方が強く働いている[府川1998]」(p40)
と正しく記述してしまった(図2はこの分析過程を親切に図解したグラフである)。

 終末期医療費が高いのが問題と言うときには、(A)を指しているのであるから、結論的には、終末期における医療費の高騰は見せ掛けにすぎないと、主張していることになる。
本報告書の意図や「思いこみ」から外れ、困った結論となった。
そこで続けて、「強く働いている要素」を「要素のひとつ」と書き換えて、
「死亡月に向かって医療費が高騰するように見える要素のひとつである」
と結び、意義を曖昧している。
ここには科学的な研究姿勢はみられない。
医療費抑制という政府の政策を裏付けなければならない哀れな「立場」だけが浮かび上がる。

 次に老人の医療費は高齢になるにつれ増えるのか(後期高齢者増による財政圧迫)という問題がある。
これまた現実のデータによって否定される。
まず死亡前医療費についてみると、府川氏の研究によれば、年齢が高くなるにつれて、低下することが明らかであるからだ(p41)。
この点は報告書に収載された府川氏の図1だけでは、死期が近づくほど医療費が増加するように見える現象の印象が強く分かりにくいが、府川氏の原著(高齢化と老人医療費[病院管理1998.4])における、このデータを年齢別に書き換えたグラフ(図3)を見れば一目で明らかである。
このことはわが国のデータだけではなく、米国のデータにおいても立証される(図5)。
「死亡時点の年齢階層別に死亡前医療費を算出すると、日米とも高齢で死亡する人ほど医療費は少ないという結果が報告されている」(p43)のである。
「ただしSpillmanらは、高齢で亡くなる人ほど医療費は少ないが介護にかかる費用と合算すると高齢で死亡する人の方が費用がかかっていると分析している」
と介護費用の方が問題であることを指摘している。

 死亡前医療費ではなく、医療費そのものについても、府川氏は前述の研究に基づき
「一人あたり老人医療費はもともと年齢の単調な増加関数ではないため、人口の高齢化によってあまり増加せず(Bの条件下ではむしろ微減)、前提条件によってはその水準が大きく異なることが確認された。したがって、2020年までに現在のAからBの条件に移行することができれば、同年の国民医療費(95年価格)は95年の1.35倍にはならず、1.16倍にとどまる。このように見てくると、人口の高齢化によって深刻になるのは、むしろ介護ニーズに要する費用である」(「ばんぶう」1999.9)と解説している。
ここでいうBの条件下(老人入院医療費から介護費用を分離させる)ではどうなるかは、現状のデータから180日以上の患者をはずして、ある程度社会的入院の影響を減少させたグラフ(図4)で推測できる。
このような条件は社会的入院費を医療保険から介護保険へ移行させることで可能になるものであり(見かけ上の老人医療費を純老人医療費へと近づける)、その限りではすでに実行過程にある政策誘導である。

 こうして見ると西村氏らの医療費増大の危機感は根拠がないのである。
高齢者の終末期医療費が医療保険財政を圧迫するなどという根拠もなく、医療から介護への移行・転換が終末期ケアの費用総額を削減するとの根拠もない。
もともと「ホスピス・緩和ケアに医療費抑制効果を期待する」必要はなかったのである。

 しかし、「終末期医療費」を医療費と介護費を含む「老人ケア費用」と読み替えると、次ぎの問題が浮かび上がってくる。
「みなし末期」論争の核心は、
「治療すれば比較的容易に治癒するが、適切な治療がなければ死んでしまう」
弱い高齢者の扱いであった、
「医師の良心から治療をやらざるを得ないでしょうから、そういう人たちが医療機関にいないようにしておく」(西村)
とすれば、老人は早死にし、対象者が減るため
「終末期医療費は同じでも、医療費・介護費の総額は減る」のは確実だからである。これは「みなし末期」
という消極的安楽死を老人ケア費増加への対策とすることである。
この政策が容認されるのであれば、老人医療費抑制だけでなく、介護費抑制も同じく容認される。
この秋の「週刊東洋経済」誌上で滝上宗次郎氏・横内氏と吉沢徹・薫両氏との間で繰り広げられた論争が突きつけた「食事介助」の問題は重大である。
「みなし末期」を容認するとなると、「自力で食事ができない人は、死ぬべきである」という発想へは、あと一歩なのだ。
医療であれ介護であれ提供しなければ、老人は死亡し老人ケア費用問題は簡単に解決する。
経済学的問題解決の方法とはこのように底の浅いものなのか。

ケアのあり方から見た終末期

 プロスペクティブな定義においては、いかなる病態像が終末期かが問題となる。
この報告書の観点からは、ホスピス・緩和ケアの対象となるような患者が該当する。
ところで終末期の予測が困難なことは、報告書自らが再三にわたり(p4、p50、p107、p108)認めていることであり、NHOの報告では「慢性疾患患者の余命を診断すること自体が非現実的である」(p50)となる。
それにも関わらず、医療の内容を変えるためには、プロスペクティブに終末期を定義せざるを得ない。
そこで
「余命に変わる定義を研究し、新しい保険給付の仕組みを作ろう」(p109)
という試みがあると紹介されているくらいである。
ところが本報告書は「アメリカの研究者も、長期間で捉えるべきとの意見が多数である」
したがって
「老人慢性病の終末期は1年以上と考えるのが妥当」(p5)
として余命期間を定義として、終末期を拡大しようとしている。

 これは「余命6ヶ月というメディケアのホスピス給付の基準」について、「非人間的バリア」であり、「通常のメディケア給付には含まれない薬剤費や、残された家族への精神的ケアまでの幅広いサービス」の提供期間や条件を拡大すべきだとの意見が多いことや、「その他の病気の場合は1年以上にわたってADLの低い状態が継続する」という発言をとらえてのことと推察できるが、意味の取り違えであり、誤った引用である。

 「アメリカの研究者」は「助かる見込みが薄くなった患者が根治治療かホスピス・緩和ケアかを選択できるように」期間の拡大のみを主張している訳ではない。むしろ、「かつては積極的・根治的な治療(aggressive treatment)から緩和ケア(palliative care)への移行があると考えられがちだったが(図6Old Model)、現在では死亡に向かって必要に応じて緩和ケアの割合を拡大していくという方法に変わりつつある(図6New Model)」「実際心臓病で亡くなる平均的な患者は、死亡前日の時点であと半年生きる可能性は5分5分であるという」「心臓病の場合は手術を施すと楽になるという効果と長生きする効果がある。楽になるという意味では、comfort care の一部に当たる。その結果として命を延ばすことにつながっても、QOLを高めることができるので評価すべきだ」(The Center to Improve Care of the Dying の見解、p105−107)とあるように、二者択一の報告書の考えはOld Model と指摘されているのである。他の研究者も、慢性疾患を射程に入れた場合、緩和ケアやホスピスに関する旧来の二者択一を迫る考え方を変え、延命治療も同時選択しなければならないことを主張しているのである。

ホスピス・緩和ケア理解の混乱

 ところが本報告書V章における、問題意識は(あるいは思いこみ)は、先の研究者たちの正しい指摘とは反対に、「末期がん患者を対象としていたホスピスケアは次第に対象者をがん患者以外にも広げ末期患者全体に適用されるようになった。また患者の希望を尊重し、QOLの向上を目標としたホスピスケアの考え方は、死に逝く人だけではなく広く長期療養患者にも応用できる方法論であると考えられる」と書いているが、これではがんモデルの単純な拡大で、方向が逆である。

 イギリスの場合はがんを対象にしているために、「一切の延命的治療を施さないことを意味するという、モルヒネの皮下持続注射器以外には人工的な栄養補給のための点滴や抗生物質の注射などはほとんどなく、ホスピスのスタッフは見守ることはしても治療的行為を行うことは例外的である」とあるように、治療の断念と疼痛の緩和を主軸としている。

 しかしながら先に見たとおり、その他の疾患に拡大するとき(アメリカの場合)には、治療の断念という考えは捨て去られ、さらに施されるべき治療は疼痛の緩和にとどまらず、積極的な治療も含め、QOL全般の向上を目指すこととなった。そして逆にがんの場合においても、治療法の進歩やがんへの知見が増えるにつれ、余命の予測が困難であることが明らかとなり、しかも高齢ながん患者は進行が遅く、他の疾患で死ぬケースが増えてきたため、治療方法は、むしろ他の疾患の長期ケアに接近してきた。これが近年の緩和ケアの発展なのである。我が国の治療を断念しない緩和ケアは、この流れの中で一周遅れのトップランナーというべきものであり、日本的な緩和ケアを正しく発展させることが、我々の課題なのである。
 こうした時代の流れに逆らってまで、本報告書は相変わらず、治療の断念を根底に置き、ただ緩和ケアの拡大だけを意図している。本来緩和ケアは、一時的に症状を押さえるという待機的治療の意味があるだけで、積極的な状態・症状の改善・維持という概念は内包していなかった(精神的サポートの必要性は、終末期に限らず、医療の普遍的課題であり、緩和ケアに特有のものではない)。この事情は「末期患者以外の緩和ケア」の項(p49)にあるように、根治的治療と緩和ケアの併用が新たな主張であることを見ても明らかである。現在の終末期医療の考えは、がん末期の医療モデルの延長上にはないのである。

 本報告書の主張はがんモデルの拡大であるが、記述内容はがんモデル適用の否定であり、内容上の分裂はここにも鮮明に現れている。言うまでもなく、がん以外の末期患者にあっては、疼痛のコントロールは主要な課題ではないし、本来の緩和ケアという概念自体はそのままでは存立しえない。治療の断念と疼痛緩和という二大テーマを抜きにしたとき、このケアをホスピス・緩和ケアと呼ぶべきは大いに疑問であるのはアメリカの研究者が言う通りである。むしろがんを含む終末期医療において、palliative care と並び comfort care という用語が使われるようになり、緩和ケア(palliative care)の概念も消極的概念から「積極的で全体的な医療ケア」へと変化してきたことの意味を考えるべきであろう。

 そもそも本報告書は「医療より看護や介護に重点を置く」ことが、「患者のQOLの向上を目標においたケア」と同じ事だと誤解している。これが全く別の次元の問題であることが理解されていない。医療と看護・介護とは二者択一のものではない。QOLを向上させるには、疾病の性格、患者の状態により、医療に重点を置く、看護に重点を置く、介護に重点を置くのいずれかの場合も組み合わせの場合もある。どれがよいかはひとりひとり異なるのである。一般的には医療と患者のQOLの向上は一体のものであって、背反するものではない。

ターミナルケアおよび老人医療における政策課題とは
 − 医療経済学者への提言 −

 老人医療費問題は、我が国の老人が長生きし、数が増えたため、日常の医療費や介護費が増加したという点であり、老人の数の問題である。個別医療費の多寡(過剰医療)が問題ではなく、社会がどのように負担するかが本質的な課題である。

 もともと医療コストの問題で、終末期を問題にするのは、あまり意味がないと言うのが、臨床現場の実感である。これら医療経済学者やマスコミが取り上げられる「過剰医療」の個別症例は特殊であるためにニュースとして取り上げられるのであって、日常的な死の状況をこれで推し量ることはできない。しかも過剰であることを医師や医療関係者のコメントを添えて報道するためもっともらしいが、医師・医療従事者や福祉関係者といえども皆が終末期医療の現実を知っているとは言えず、現実離れしていることも多い。

 北欧における在宅の重症のがん患者をみて、このような患者が日本では集中治療室に入っていると発言をした「医療関係者」がいるそうだが、知ったかぶりはいい加減にしてほしいものだ。がん末期患者が集中治療室に入室することは一般的にはなく、集中治療室入室期間は、1日から1ヶ月程度までの幅はあるが、平均して3,4日であって、在宅ケアが可能な状況とは質を異にする。

 現代科学は救命技術を発達させ、症例によっては、多くの人的物的資源の投入により救命を可能にしている。日常見られる過剰医療は延命のための医療ではなく、救命のための医療で生じている。一般に医者は助からないと思っている患者に対して、労力をかけて過剰な医療を提供したりはしない。集中治療室は「死に部屋」ではないのである。他方家族が死を受け入れるのを待つため「延命のための延命」医療も行われるが、それほど費用がかかるものではない、そのために一般病棟から集中治療室に移されることもない。

 医療や介護のあり方やその問題点は、刻々変わる制度やその運用によって変化している、その現場の状況を知らず、これら医療経済学者が、観念や「思いこみ」により、ピントはずれ・時期はずれの「医療や介護のあり方」を提言されるのは、大変に迷惑である。医療批判をするつもりなら、病院の現場状況に基づき直裁に批判すべきであり、そのような経済学的研究は可能であろう。希望される医療経済学者には我々の病院をフィールドとして提供し、協力する用意はある。そうでなければ、医療経済学者は本来やるべき経済学的調査研究をしていただきたいと思う。本報告書の救いは、マスコミには載らない府川氏のような実証的研究者の存在と、その研究を紹介していることである。

 医療経済学が明らかにしなければならない本質な問題は、「すでに起こった未来」(P.ドラッカー)としての人口構造の変化に伴う医療費や社会保障制度の変動であり、数値的に明らかにできるはずである。その上で高齢化社会の在り方全体を検討すべきなのである。現社会保障制度の存続を前提にして、しかも数値的判断抜きで経済危機を煽るのは不見識であろう。保険組合の財政危機をもって、一国の社会保障危機とすべきではない。

 しかし一連の薬漬け医療、悲惨な老人病院への批判、そして医療保険財政が破綻するという歴史過程が進行している中で、過剰医療批判をてことして老人医療抑制論が感情的に繰り返し主張されてきた。これに情緒的に乗って医療批判をすることが、医療経済学者のやるべきこととは思われない。しかも老人医療費危機論の対応策として、提案されることの多くは、診療報酬上の長期入院の是正、薬価差益の縮小、部分的包括払いの導入、急性期病床と長期療養病床の分離、長期療養を基本的に介護保険へ移行させるなど、すでに着手されている政策に過ぎず、現制度の手直しの範囲を超えない。筆者が批判してきた人々の「政策提言」の新しさは、意図しているか否かは別として、老人を早死にさせることにより、人口問題を解決し「老人医療費」を下げようとする情けない提案にある。

 日本社会はいかに高齢者を抱え守っていくかが問われている。「国民負担率」や「老人医療費抑制」という言葉の呪縛を解き放って、「すでに起こった未来」の老人ケアコストの増大を数値的に把握し、どこかに無駄があるのではないかという幻想は捨て、まずそれを担う覚悟を決めるべきである。無駄はあるだろうが、その程度では問題は解決しない。国民の覚悟を促すためこそ、医療・福祉の提供者は、その仕事の質を高め、それを可能にする効率的な社会的システムを提案していかなければならない。その過程で誤った既得権を捨て、制度の合理的改革を身を切る覚悟で行うべきであろう。この点では医療者側にも責任の一端がある。